最近、なんだかすごい時代になってきたなあ、と思うこと(とひとりごと)

なぜかオニギリ。オニギリはやっぱり梅干しが好きです。

すごい時代になってきた、と思う

最近すごい時代になってきたなあと思うことが多い。良い意味でも悪い意味でも。

無料の本や漫画、毎日レッスンを受けても月数千円しかかからないオンライン英会話、数百円で記事を書いてくれるライター、信じられないくらい安い、時に無料のプログラムやウェブサイト。

ときに、「こんなお金であなたたちは生きていけるの?」と心配になってしまう。

サービスや商品が安すぎて、どうにもサービスを提供する人が儲かるように見えない。たぶん儲かる人がいるとすればほんの一部、サービスの胴元だけじゃないだろうか?

もちろんそんなことは頭ではわかっていたんだけれど、あらためて「えぐいなあ」と思うことが増えた。正社員という視野狭窄を抜け出した結果、見る位置が変わって、いろんなものが見えるようになってきたのかもしれない。

一見報酬が減らなかったとしても、100円ショップのお菓子の中身がじつはこっそり減っているように、一人一人に要求されることがどんどん増えて高度になっている。たとえば楽器プレゼントで有名なある音楽教室では、受付のカウンセラーはいなくて、先生が営業も事務作業も、もちろんレッスンもすべてをこなすという。

受益者としては、安くて良いサービスを受けることができてラッキーなのかもしれないし、胴元はコストがかからずに「安くて良いサービス(商品)をみなさんにお届けしたい」と目を輝かすのだけれど、現場は大丈夫なんだろうか?

そういう兆しはずっとあったけれども、たぶんこの20年ほどで急激にものの価値だけでなく、人間の労働の価値が信じられないくらい安くなってきている。前インターネット時代に人間がやっていたことを、コンピューターとインターネットサービス、あとロボットで、すごく安く代用できるのだから当たり前といえば当たり前なのだけれど。

それから、東京に住んでいるとレストランも美容室も医者も歯医者も、とにかくたくさんあるなあと思う。そんなにたくさん食べられないし、髪の毛は月に1センチしか伸びないし、そんなに病気にもならないし、歯も決められた数しかない。サービスを提供する側が多すぎる。悪いけど、ちょっと気に入らなかったら、すぐに他に乗り換えればいい。もっと安くて良いところがいくらでもある。競争が厳しすぎるなあと思う。

なんでこんなことになったのだろう?

それで、ふと「なんでこんなことになったのだろう?」と思ったのだ。といっても答えはでないけど。

こんな世の中で、みんながお金を使わないのはむしろ当たり前だ。お金を得ることが昔よりもずっと難しくなってきているのだから。お金をばんばん使う方が気が狂っている。

もしかしたら…お金を中心とした経済自体ががもしかしたら崩れ始めているのかもしれない。そう思うと、ちょっと薄寒い気分になる。じゃあ次はどんな世の中がくるの?どうすりゃいいのよ?どこかに逃げ場所はあるの?

でも、世界中どこに行ってもインターネットがもたらした本質的な世界の変化から逃げることはたぶんできないのだろうなあと思う。

もらえるお金で考えたら、働くことは多くの人にとってかなり馬鹿らしくなりつつある。実際に、この報酬じゃあばかばかしくて、寝てた方がいいなあと思う仕事がある(もちろん断る)。だって私がやらなくても、喜んでやる誰かがいる。だれも困らないのだ。

人生はリスクAとリスクBの比較

なんだか、こうなってくると、お金のことだけ考えれば論理的にベストな結論は「なるべく働かないほうが良い」なんじゃないかとも思えてくる。

でも、すぐに死んで逃げられる世代はいいんだけれど、まだすぐに死ねない世代はどうすればいいんだろう?短絡的に考えると、なるべくお金を使わないようにすること、お金を貯めたらまだ物価の安い国に移住すること?

うーん、それもなんだかつまらない。嫌なことを我慢してやっても、報酬が少なくて報われないのだとしたら、できる人が少ないこと、ほしがる人が少ないものを、報酬が少なくてもしたいことをしたほうが良いのかもしれない。人生は結局リスクAとリスクBの比較なのだから。

そういえば、起業が多い地域というのは、雇用が不安定な場所らしい。普通に働いていても貧困リスクが高いから起業をするのだ。日本に起業家が少ないのは、まだ雇用が比較的安定していて、リスクが低いことを示している。それも、いつまで続くかわからないけれど。

とはいえ、自分が本当に好きで、それで一生を費やして後悔しない、という仕事を探すのも案外大仕事なんだよね。私は恥ずかしながらまだ見つかっていないと思う。死ぬまで探し続けてやっぱり見つからずに死んじゃうのかもしれないなあとも思う。それでも、怪我をするからと遠足に行かないよりは、やっぱり遠足に行きたくなってしまうのだ。

お弁当と水筒は忘れずに

そんな私は、ガリバーのように待ち望んだ故郷にやっと帰ってきても、やっぱりすぐに船の帆をあげたくなってしまうのだ。

まあ、こんなしょうがない自分だから仕方がない。傘とお弁当と水筒、それからおやつ300円分のリスクヘッジを忘れずに、口笛を吹きながら遠足を続けようと思う。

もしかしたら、梅雨空でちょっと気分がダウンしているのかもしれません。そんな日もあるさ。しかしただぐだぐだ書いているだけなのに見出しをつけると、なにか主張があるみたいに見えますね。そうでもありません(笑)。

冷たい雨の日には、なぜかグールドが聴きたくなります。グールドといえばバッハですが、私は彼のベートーヴェンもすごく好き。ということで、あえての『6つのバガテル』。ベートーヴェンが作曲した最後のピアノ曲です。けして録音も多くない曲ですが、グールドは強いこだわりを持って、自分が録音する曲のレパートリーを選んでいました。バッハ以外の作曲家の作品にも素晴らしい録音がたくさんあるんですよねえ。

さすが人気のピアニスト、CDも何回にもわたるリマスター盤や、いろんなベスト企画盤があってすでにわけがわからない状況に(うちのCD棚も)。こちらはベスト盤です。

低気圧に負けずに、良い一日を!

ポーランド映画『裏面』

ここんとこ欧州映画をいろいろ見ました。といっても6、7本程度だけど、なかでいくつか面白かった映画があったので、メモしておきたい。

まず、ボリス・ランコシュ監督の2009年のポーランド映画『裏面』。これがすごく面白かった。

舞台は共産主義体制下、1952年のポーランドの首都ワルシャワ。30歳のサビナは、政府機関で詩の出版に関する仕事をしている。といっても共産主義のことなので、自由な創作ではなく、プロパガンダ作品が求められる不自由な時代だ。

彼女は祖母と母、画家の兄と暮らしていて、祖母と母は年頃の彼女を早く結婚させたくて仕方がないのだけれど、彼女自身はまだまだ恋を夢見る乙女。母が連れてくるお見合いの相手には見向きもしない。

そんなある日、帰宅中のサビナが知らない男たちに絡まれているところにハンサムな男性が現れ彼女を助けてくれた。彼女はその男性と交際を始めるが、彼はほんとうの名前も仕事も明かしてくれない。恋に夢中のサビナが気がつかないうちに、男はすこしづつ本性を表していく。

これ以上は言いたいけど言えない!でも、ブラックなユーモアたっぷりですごく面白かった。

旧体制から共産主義体制に大きな変化を強いられた当時、社会の支配層が力づくで入れ替わって、被支配者層の貧しく粗野な男たちは突然思いもかけない権力を握ってしまった。その一方で、支配者層にいた知識層の男たちは突然力を失い、今まで自分が支配していたはずの男たちにとり入るしかなかった。

社会の構造がくるりと裏返しになり、力を握った男たちが自分の力を持て余し、力を失った男たちがすこしでも力を得ようとおたおたしていたそばで、どちらにしても社会の主流になれない女の強さが際立つ。力から分断されているからこそ、女は、ただシンプルに人生を生き続ける力を失っていない。

画家の兄が見て気絶してしまった(そしてその後の人生、ずっとトラウマとなった)惨状のすぐ横で、サビナの母はいかにものんびりと編み物さえする。彼女はどんなことがあっても、娘を守るということだけを決然と心に決めていて、何があっても恐れない。

まあ、言っちゃうと陳腐かもしれないけれど、女の強さは、戦って支配しようとする男の強さとは違う、たぶん、今日笑って生きて命を繋いでいこうとする種類の強さなのだ。

でも、よく考えてみれば、男だろうと女だろうと人生は実はシンプルなのかもしれない。社会がひっくり返ったって、男も女も、今日もご飯を食べて生きていくのだから。

映画を見たあと、なぜかトランプ大統領の顔がちらついてしまった。たぶん、いつのまにか貧困層になってしまった元中流層の怒りが、トランプみたいな人を大統領にしたのだろうと思う。彼らは、どうして自分たちが貧しくなったのか理解できなくて、ただ怒っている。トランプ大統領の誕生は貧困層が起こしたちょっとした革命みたいなものなのかもしれない。

現代の女たちは、ちいさくひっくり返った社会で、サビナたちのように、男社会の価値観に飲み込まれずに生き伸びることができるんだろうか。でも考えてみれば、今まさに女たちがMeetoo運動の下に結託して、男性的な価値観を否定しようとしていているのかもしれない。そして、じつは旧来の男社会の価値観にうんざりしている男性もたくさんいる。

そういえば、映画の中でサビナの子が、やさしいゲイの男性なのもなにやら意味深にも見えてくる。女性でも、男性でもない、新しい中間的なセクシュアリティと新しい価値観。

良い映画ってそういうものだと思うけれど、この映画もすごく多面的で、いろんな角度から語ることができると思う。まあ、なにも語らなくたっていいんだけど。単純に面白くて笑える気持ちの良い映画なんだから。残念なのは、DVD入手困難で、今のところ見ること自体が難しいこと。もしも見る機会があったらぜひ。すごくおすすめです。

関係ないけど、ポーランドって、いまだに男性が女性にハンド・キス(男性が女性の手の甲にキスをする)をする国として有名なんですが、映画の中の現代のシーンでも、サビナがハンド・キスを受けるシーンがありましたね。いやあ、ポーランド男性、すごいなあ。

・・・

大阪で地震の被害に遭われた方々が、早く安全なもとの生活に戻れますよう。心から、お祈りしています。

ペンギンの憂鬱 アンドレイ・クルコフ 読書メモ

孤独な小説家と、孤独なペンギン

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス) 前から読みたいと思っていたウクライナの作家アンドレイ・クルコフの「ペンギンの憂鬱」を読んだ。すごく面白かったので、ひさびさに読書メモ。

読みだすと同時に、ロシア文学に似たどこか陰鬱な空気感と匂いを感じたのは、原作がロシア語で書かれていたせいかもしれない。

時代と舞台はソ連崩壊後のウクライナ。主人公は首都キエフに住む売れない孤独な短編小説家で、およそ親しい友人も家族もいない。動物園からもらいうけた陰鬱な皇帝ペンギンとともにたったひとりで暮らしている。

ソ連という大きな国から“解放”されたウクライナがこの時代いかに混乱していたかが、動物園を閉鎖して、ペンギンを市民に引き取ってもらわなければならなかったという設定からも伝わってくる。ある意味ソ連に捨てられた孤児であるウクライナと、動物園から追放された孤独なペンギン(ペンギンは群れで暮らす)の姿が二重写しとして描かれている。そしてまた主人公もまたペンギンのように孤独だ。

そんな中で主人公に、生まれて初めて「親しい信頼できる友人」ができ、経済的にも次第にうるおい、さらに女の子と、それから若い女性まで一緒に暮らすようになっていく。外から見たらまるで父と母と娘(とペット)の“幸せ”な家族に見える。でも、そうした幸せのようなものが彼の人生に訪れるのと同時に、死の気配もまた彼の人生を深く侵していく。

この辺の書き方がすごくうまくて、濃くなっていく死の気配に脅かされつつ、その「幸せっぽい状況」は、ほんとうに幸せなのか?なんなのか?みたいなことを、主人公はずっと考え続けているのだ。彼は、この女性にぬくもりを感じているけれど、結局は愛情を感じていないし、女の子にも愛情を感じてはいないことを自覚している。彼が愛着を感じるのは、結局は憂鬱なひとりぼっちのペンギンだけなのだ。

だからこそ、ラストシーンの彼の決断と行動が、なんとも言えずうまくてうなってしまう。彼は最後に自分が何者かを宣言し、そして本来の自分が属すべき場所に、自分の本物の人生に象徴的に戻っていくのだ。彼が本当はどのような者なのかは、ぜひ本書を読んで確かめてみてほしい。

クルコフと村上春樹

ところでクルコフは村上春樹作品が好きだそうで、訳者の沼野恭子さんがあとがきで村上春樹作品と雰囲気が似ていると指摘され、読者はどう感じられるだろうか?と問いかけていらっしゃったので、面白いなあとしばらく考えていました。

主人公が何かから逃げて備蓄付きの家に閉じこもるとか、女の子が出てくるとか、ペンギンみたいな可愛い生き物が出てくるといった舞台装置はたしかになんとなく似ているところがあるんだけれど、主人公のあり方が全然違うというか、逆なんですよね。

村上春樹の作品はフロイト的というかユング的というか、集合的無意識の世界、夢の世界に深く降りていき、目覚めた時に現実の人と世界も変化しているというようなところがあると思うのです。主人公が受動的と言われるのもよくわかる。夢の中の人間って受動的ですから。

それに比べてこの作品はやはりとても政治的だし、非常に意識的にしっかりと構成されたコンセプトがあり、主人公は受動的な状況に追い込まれるけれども、最終的には能動的に自分の人生を選び取っていくように、私には見えるのです。

感覚的に言っちゃうと、ハルキは東洋的無意識的で、クルコフはやっぱり西洋的(非東洋的)意識的みたいなことになるのかもしれません。わかりませんけど。

日本語世界と無意識的世界

そのへんって日本の現代美術と海外の現代美術に感じる差にも、どこかとても似ているんですよね。コンセプトがはっきり意識され、語られ、主張されている海外作家の作品と、コンセプトがなかったり、あっても作家自身がコンセプトを探し中みたいに見えたり、どこか生煮え感覚な日本の作家たち。

西洋でもフロイトが登場した時期に無意識的世界を探る作品が流行ったけれど、結局は今は廃れてしまった気がするのです。それは西洋文化と無意識の相性の悪さということがあるような気がします。

そして日本の作家がコンセプトをしっかりと作るのが苦手なのは、逆に日本文化がもともとなにもしなくても無意識的なので、意識的に構築していく「コンセプト」みたいなアプローチが逆に苦手なんじゃないかという気がするのです。ある意味、それが村上春樹とも共通した日本人の(Zen的な)精神世界なのかもしれません。

最近はコンセプトがしっかりした日本人作家もかなりでてきたけど、海外で活動されているか、活動したことがある人が多いと思う。突き詰めていくと、結局日本語のつくりみたいなものとも関係があるんじゃないかという気がしてならないんですよね。このへんを考え始めるときりがないですが。日本語世界をいったん離れないとコンセプトというものは難しいのかもしれないのかもしれない、なんて思ったりします。まあ、東西どっちが良いとか優れてるってわけではないですけど。

とにかくまさにページターナーでした。あっという間に読んでしまった。

ところで、ここ1ヶ月に見たものや聞いたもの、ぜんぶアップデートするのは、諦めることにしました。結局はブログは日誌じゃあないし、今書いておきたいことを書けばいいんですよね。と、考えを変えたのも、ペンギンがすごく面白くてなにか言いたくなったからだと思います。

もともとロシア文学(および寒冷地文学、笑)好きなのですが、最近は自分の中で、東欧がちょいブームです。ポーランドの写真もすごく良い作家が多いし、最近見たちょっと前のポーランド映画『裏面』も最高に面白かった。って、ポーランドばっかりでしたね、笑(地理的にはポーランドはドイツの隣だけど、政治的には旧共産圏なので一応東欧。この辺っていつもどっちか迷います)

ところで、関係ないけどボルシチってもともとウクライナ料理らしいですね。

では、今日も梅雨空に負けず、良い1日を。

レミ・ジュニエ・ラフォルジュルネ・オ・ジャポン2018など

またしてもすっかりご無沙汰して、はてなのURLを忘れそうになる始末。なにかに夢中になると、いろんなことが器用にできないたちなのです。いいかげん、連休からもう一ヶ月で、忘れそう。

しばらくビジュアルアートのポストが続いたので、連休前に聞いたレミ・ジュニエと、GW恒例のラフォルジュルネ・オ・ジャポン2018の備忘録。

レミ・ジュニエ

彼はラフォルジュルネにも出ていたけれど、ラフォルジュルネを開催する国際フォーラムはあまり音が良いとは言えないので、文化会館の小ホールのリサイタルのみをチョイス。あの小ホールの音は独特で、強く聞こえるというか印象的でかなり好き。特に印象的だったのはペトルーシュカ。生き生きとしたバレエ・リュスの名曲だが、舞台で踊るペトルーシュカが目に浮かぶ熱演だった。フランスものは嫌いだったと本人は言っているようだけど、ラヴェルも美しかった。フランスものやロシアものをもっと聞いてみたい。まだ若い演奏家なので、がんがん攻めてほしいなあ。バッハやベートーベン(しかも31番)はもっと年取ってからにとっておいたほうが良いのでは?

曲目 ●J.S.バッハブゾーニ編):シャコンヌ  ●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 op.110 ●ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」からの3楽章 ●ラヴェル:ラ・ヴァルス

ラフォルジュルネ・オ・ジャポン 2018

例年適当に面白そうな公演があったらチケットをとるのだけど、今年のラフォルジュルネは、気がついたら鍵盤ばかり。今年からは都内も二箇所で開催するようになり、日本各地にも増えて、どんどん大きなイベントになっているけれど、初期の頃の「めったに聞けないへんてこな曲が聴ける」という面白さのほうもなくなってきたかな。卒業する演奏家パフォーマーも増えてきたし、そろそろ私も聴衆卒業が近いかも。昔の勅使河原さんのダンスとクラシックの共演とか、ピエール=ロラン・エマールのメシアンみたいなとんがった公演が懐かしい。

ルーカス・ゲニューシャス

なかで、数年前感動的なラフマニノフのピアコンを聞かせてくれたルーカス・ゲニューシャスによるヒンデミット《ルードゥス・トナリス》は、彼の勝負曲(?)だけあって、非常に生き生きとしたエネルギッシュな演奏でおもしろかった。アンコールのデシャトニコフも、ジャズ的な熱気みなぎる演奏で、会場も興奮。

ヒンデミット《ルードゥス・トナリス》1〜5

アンヌ・ケフェレック

今年のアンヌ・ケフェレックが弾いたのは、お得意のドメニコ・スカルラッティスカルラッティは、30曲のソナタ集の出版に際して、「深刻な楽想を期待するよりも〜中略〜邪心のない技術的な工夫をしてください。私は皆さんを楽しませることができると信じています*」と書いたという。何も難しいことを考えず、ただ素直に弾けば美しい曲なのだという意味ではないかと私は思う。彼女の透明な音色、子供のように純粋なスカルラッティを聞くたびに、その言葉を思い出す。

ケフェレックが弾く、スカルラッティソナタK.27。

ラルス・フォークト

チケットを取った時に一番楽しみにしていたのは、ラルス・フォークトのピアノ。今回は弾き振りだったが、あの巨大な会場では、彼の繊細で美しいピアノがイマイチ聞こえなくてひたすら残念。指揮がなかなか良かったのはうれしい予想外だけれども。

ショパンノクターン、この人のショパンも美しいんですよね。

ほかにもいろいろ聞いたのだけれど、このへんで。

ショパンコンクールおよびチャイコフスキーコンクールで両方2位を取った若手ピアニストルーカス・ゲニューシャスが、デシャトニコフほかを弾いたアルバム。

2015年、ケフェレックは、なんと40年ぶりにスカルラッティを再録音。宝石箱のようにスカルラッティの美しい数々の曲を楽しめるアルバム。

ラルス・フォークトはどのアルバムも美しいんだけれども、子供のためと思っていた曲たちに秘められた繊細さや美しさを教えてくれた、このアルバムをチョイス。子供に戻って弾いてみたくなること請け合い。いかにもいかついドイツ人顔だけど、心は優しく繊細なのだろうなあ。

*スカルラッティ ソナタ集1 中山靖子編 音楽之友社より引用

*画像は、ぴあ特設サイトから引用。

21世紀の美術 タグチ・アートコレクション展

岡村さんの個展の隣の会場でタグチ・アートコレクション展が開催されていた。タグチ・アートコレクションはミスミの経営者であった田口弘氏の400点を超えるコレクション。そのうち今世紀に制作された作品70点が展示されていた。

コレクター展というのは、集めた人の個性が見えてなんだか面白いなあと思う。記憶に新しいところでは、精神科医高橋龍太郎さんのコレクション展はいかにも精神科医らしく人間の心に対する興味を感じさせたし、空間デザインの片山正通さんのコレクションは個性的でセンスがよく、それぞれ「らしい」なあと思わせるところがあった。

会場に入ると左手にジュリアン・オピーの大きな作品、正面に奈良美智が2点。村上隆の作品も目に入ってくる。内外の有名作家、新進作家の作品がいろいろで楽しめる。

テーマは「芸術とはなにか」ということで、フェルメールの絵画を絵葉書で再構築したり、絵画の裏側を細密に再現して見せたヴィック・ムニーズの≪デルフトの眺望≫や、青山悟さんの刺繍作品の美術の分類と楽しい批評の言葉などはいかにもテーマに沿ったもの。

紹介しだすとキリがないけれど、個人的にここ数年お気に入りの加藤泉さんのトーテムのような彫刻。杉本博司さんの海峡シリーズも一点。杉戸洋さんの可愛い油彩も一点。

ほかにも、セバスチャン・ディアス・モラレスの≪バサヘス≫は、ひとつのドアから出てきて歩いて行きもう一つのドアを開ける、という短いシークエンスを大量につないで巨大な仮想迷路空間を作り上げた作品。逆説的に映像の嘘の構造、映画やドラマの嘘の構造を暴いていたように見えて、個人的に興味深かった。

ほかにもあれもこれもそれも、あちこちで見たばかりの記憶のある作品もいろいろ(←雑)で、有名どころから、採りたて新鮮な今の作品まで見ることができる。

今更気がついたけど、いつのまにか日本人コレクター展が増えているような気が?まあベネッセとか森とか、古いところだと西武やブリジストン、もっと昔を掘り返せば西洋美術館の元になった松方コレクションなんかももともとプライベートだけど。ここで思ったのは、もっと自由で新しい新興コレクターのコレクション展。増えてません?

コレクション展を見るといつも、わたしだったら、どんな作家のどんな作品を「収集」するかなあと考えてしまう。予算が小さければ自分が楽しむための小さな作品を買うだろうけれど、巨額の予算があったら、自分の死後、作品を社会に還元するというか、残すことを考えるだろう。そういえば、数年前に見た台湾のヤゲオ財団のコレクション展(凄かった…)では、作品に値札!!がついていたっけ。

とにかく、巨額予算コレクションを作るとしたら、たぶん自分の好みよりも、何を残し、何を次の世代に手渡すべきか、ひとつの時代を表す作品はなんなのかということを考えるだろうと思う。その場合、コレクター(私・笑)の個性は薄まるだろうか、またはますます濃く滲み出ちゃうだろうか?(関係ないけど、日本の美術館にもっとクレーがほしい)

なにはともあれ今回の企画展、コレクターの個性をあまり感じない手触りだったのはテーマのせいだったのか、それともコレクターの意図もしくは個性だったのか?などと、つらつらと考えながら見終えました。

平塚市美術館にて、会期は6月17日まで。

GW旅行シリーズ、まだ続きます〜。

【出品作家】 青山悟、淺井裕介、マシュー・バーニー、ヨナス・ブルゲルト、ホセ・ダヴィラ、セバスチャン・ディアズ・モラレス、ナタリー・ユールベリ&ハンス・ベリ、トレーシー・エミン、マーク・フラッド、モリーン・ギャレース、五木田智央、ジョアン・グスマン&ペドロ・パイヴァ、キース・ヘリング、セクンディノ・ヘルナンデス、カンディダ・ヘファー、今津景、ハイヴィ・カーラマン、金氏徹平加藤泉川俣正小泉明郎、丸山直文、ライアン・マッギンレー、ミヤギフトシ、ジョナサン・モンク、リチャード・モス、ヴィック・ムニーズ、村上隆、オスカー・ムリーリョ、奈良美智、西村有、大竹伸朗、オスカール大岩、ヨーコ・オノ、ジュリアン・オピー、ジョルジュ・オズボルト、ロブ・プリット、ゲド・クイン、マリナ・レインガンツ、クリスチャン・ローザ、ウィレム・サスナル、さわひらき澤田知子杉本博司杉戸洋、鈴木ヒラク、照屋勇賢、トゥークラル&タグラ、マリオ・ガルシア・トレス、アンディ・ウォーホル、リネット・ヤドム・ボアキエ(特設サイトより転載)

画像参照:マシュー・バーニー《Ms. グッドヤー》1995 年 © Matthew Barney 平塚市美術館

岡村桂三郎展-異境へ

会場に一歩足を踏み入れた途端、異界に迷い込んだのかと思った。低いものは子供の身長ほど、高いものは4~5mほどにもなるだろうか。重量感のある杉板に描かれたモノクロームの生き物たちで会場はすっかり混み合っている。

バーナーで焦がされ、うろこ状に削られた荒々しい絵の表面は、加えられた熱とは異なって、どこか水の底にたゆたっているような印象を受ける。

うろこの向こうから、こちらを見つめる細い目と目が合う。あちらからもこちらからも、彼らは見ている。たぶん太古の昔から、彼らはいたのだ。ずっとそこにいて、私たちを見ていたのだ。

画家の手で、太古の地層から、海のそこから呼び出されて会場にたゆたっていた存在たちに、バーナーの火は熱くありませんでしたか?と心の中でふざけて聞いてみる。

彼らは悠然と微笑む。または口の橋を1ミクロンほど歪めてにやりと笑う。または、目だけをぎろりと動かしてこちらをにらんでくる。

(私たちは地球の中心の火から生まれ、水の洗礼を受け、ずっと太古から存在してきたのだ。バーナーの火など。)

いやいや、もちろん妄想です。それにしても背中の毛がぞわぞわっと立つような、目に見えないものと出くわしてしまったような濃厚な気配に圧倒されました。どこか冷房がすごく効いてるように感じたのは、気のせい?

旅の途中に立ち寄った平塚市美術館で、会期は6/24まで。タグチコレクションの現代美術の企画展も同時開催中でした。

画像参照:2018年平塚市美術館_岡村桂三郎展会場風景 撮影/末正真礼生 平塚市美術館

生誕150年 横山大観展

横山大観について語るのは、とても苦手だ。日本画家の中でも一二を争う大人気の画家なので、いままで何度もいろんな美術館で企画展が行われているし、私もわりと律儀に見に行っているのだけれど、やっぱりいまいち良さがわからない(涙)という告白から、始めないといけないのがまずなんだかである。とは言っても、なぜか、じゃあ行かなくてもいいや、と振り切ることもできずに、行ってしまう自分のこともよくわからない。ということで、なんだか全体的にもやもやしているのである。

そうして、大観展に行くたびに、帰りにやっぱり良さがいまいちわからない、と思って首をひねりつつ帰ってくる。それなのに、また行ってしまう。横山大観は何をして、わたしに「横山大観をなんとか理解したい」と思わせるのだろうか。不思議だ。好きじゃないけど気になる存在、それが私にとっての横山大観である。少女漫画かラブコメ映画なら、いくつか派手な喧嘩をした後に、カップルとして結ばれることになりそうな設定である。

わたしが横山大観を苦手な理由は、だいたいわかっている。大観の作品は、日本画的な品の良さや、清らかな美しさをあまり感じさせない。ついでに言えば、大観は単純な線で見事に人間や動物の形態をとらえてしまうようなタイプでもなく、デッサンもあまりうまくはない。見ていると、なんだかあちらこちらが、もごもごと崩れたり狂ったりしている。さらに言うと、それなのに押し出しだけは強い。「どうだ!」と肩を怒らせてくる。

大観の富士山も、富士山自体の偉大さや雄大さというよりは、やっぱり富士山の後ろから大観の顔がちらりちらりと見えて、こちらの反応を伺っている感があって落ち着かない。どうやっても絵の向こうに隠れてはくれないのだ。そういうわけで、押し出しの強い人が苦手な私は、ちょっと「苦手だなあ」とやっぱり思ってしまう。

でもそれこそが、大観が数々の日本画家のなかでも抜きん出た人気を集め続ける理由なのかもしれない、とも思う。日本画の画家は、自然の脅威や美に目を見開き、自然を描こうとして自分はしずしずと画布の後ろに隠れてしまう。画家の個性はどうやってもなくなりはしないけれど、彼らの自我は西洋の画家たちのような強烈なものではなく、自然や対象の生命や美しさに溶けこんでしまうような輪郭の淡い自我だ。一方大観は、「どうだ」と主張してくるのだ。

レンブラントを見る時、私はそこにレンブラントその人を感じる。セザンヌの描いたサント・ヴィクトワール山には、やはりセザンヌがいる。そして素晴らしいなあ、と思う。でも、日本画を見る時は、画家ではなく自然そのものを感じて「いいなあ」と思う。あんまり画家に「どうだ」と言われると、ちょっとね、と思うのだ。

日本画を見ている私と西洋画を見ている私は同じ人間なのだけれど、どこか違うモードなのかもしれない。頭のてっぺんに小さなスイッチがあって、両端には「和」と「洋」と小さな文字で刻印してあって、日本画を見る時にはカチっと小さな音がして、「和」のスイッチが入るのかもしれない。冗談だけど。

それとも、日本人の自我のあり方に関係があるのかもしれないな、などとも思う。明治からこっち、和魂洋才などと言われて、西と東、ふたつの方向に首を振りつつ生きている日本人の自我。畳の部屋にソファーを置いて暮らしてきた日本人。

そんなことをつらつらと考えながら会場を回っていて、今回の目玉の一つである≪生々流転≫の一挙公開を見始めた。


《 生々流転 》一部

生々流転は、大観が55歳の頃の作品だ。約40mちょっとの絵巻は、収める陳列ケースもまた長大で、ちょっとした競技用プールの奥行きがある。40mの絵巻を一度に最初から最後まで見るのは、わたしもはじめてで、長い長いケースの前を、たくさんの人たちと一緒に、じりじりとゆっくりとしたカニ歩きで見ていった。一滴の水が川になり、大河になり、大きな海になり、そしてまた雲になって、いつかはじまりの一滴の水に戻っていくのだ。すべてのものは変わってゆく。そしてまた元に戻り、輪廻を繰り返す。

長い絵巻をゆっくりと見ながら、不思議にいつのまにか横山大観に感じていた、ちりちりとした苛つきというか、かすかな反感のようなものが自分の中でゆっくりと消えていくのを感じていた。

あれはどういう不思議だったのだろう。

ゆったりと流転する画面を見ながら、私もまたゆったりと絵巻の中にたゆたっていた。「どうだ」というつもりで作ったはずの生成流転の画面から、いつもの「どうだ」という声は、あまり聞こえてこなかった。私のイメージの中の大観の肩の力もなぜかすこし抜けているように見えた。こちらが本当の大観だったのだろうか、とふと感じた。

大観の若い頃の作品に、キリストと仏陀孔子と老師が幼い少女を取り囲んでいる《 迷児 まよいご 》という作品がある。孔子、釈迦、老子の三聖を一緒に描くのは昔からある画題だけれど、そこにキリストと女の子を加えるところが、うまく説明できないんだけれど、見ていてなんだか赤面してしまう。「東洋」ではなく、「世界」に視野を広げた若い大観の野心のようなものが伝わってくるようで、なんだか中二病的というか、こっぱずかしい。

でも、若い大観がこの作品を描いた明治時代、日本もまた開国をして西洋と出会い、ちょんまげを落とし洋服を着て、必死に新しいアイデンティティを模索していた時代だった。ある意味、大きくふりかぶることも、西洋に視野を広げることも、時代の必要だったかもしれない。大観は近代化を目指してまっしぐらに走っていた日本がまさに必要としていた画家だったのかもしれない、という気がしてきたのだ。

そんな時代を考えれば、あの女の子は当時の迷える日本そのものなのかもしれないという風にも見えてこなくはない。突然割って入ってきたキリストは女の子の隣に陣取り、手を上げている。女の子の前でかがんだ孔子と彼女の視線は合わず、釈迦はキリストの後ろに押しのけられている。大観は、この作品で何を言いたかったのだろうか、と想像してしまう。

そんな大観が今も、日本でもっとも人気のある画家のひとりとして多くの人たちに愛されていることは、どういうことなんだろうと考えるのも面白い。日本人はいまだに明治時代のまま、日本に片足を置いたまま、もう片足で西洋的な、なにか大きなものを追いかけているのだろうか。

または≪生々流転≫で思いがけなく見えたような気がした静かな大観が本音なのか、いつもの「どうだ」と大きく出る大観が本音なのだろうか、という謎もある。本人に聞いて見ないとわからないけれど、もし聞いてみたとしても、大きな声で笑い飛ばされそうな予感が濃厚にする。結局、わたしにとって横山大観は気になる謎の画家のままなのだ。

会期は5月27日まで。

では今日も、大きく、自然に良い1日を!

画像参照:トップ《 群青富士 》 1917(大正6)年頃 絹本金地彩色/《 生々流転 せいせいるてん 》 1923(大正12)年 絹本墨画/《 迷児 まよいご 》 1902(明治35)年 絹本木炭 生誕150年 横山大観展 特設ページ

名作誕生-つながる日本美術展

長谷川等伯 松林図屏風 図(右隻)

ブログをだいぶサボったせいで、どこまで遡ればよいか、そろそろわからなくなりそうです(笑)。とりあえず連休前に遡って、見たものを順次のんびりあげていこうかな。

東博の「名作誕生-つながる日本美術」は、まずはキュレーションが面白かった。中国美術と日本美術、師弟のつながりや古典とのつながり、伊勢物語源氏物語といった文学作品をテーマにしたつながり、モチーフや定型の図像でのつながりなど、日本美術史のなかで繰り返されるテーマを「つながり」のキーワードごとに見て、日本美術史をなんとなく俯瞰できる構成になっている。

この「つながり」という言葉。あえてネガティブな見方をしてしまえば「模倣」とか「真似」と言い換えることもできる。「模倣」というとネガティブに取る人もいるだろうから、「つながり」という今の時代っぽい言葉にしたのかもしれない。

でも、なにかを作ろうとか、考えだそうとしてみたことがある人なら誰でもわかると思うけれど、結局はゼロからなにかを作ることなどそうそうできはしないのだ。すでに先人があらゆることを試しているし、それを見て見ない振りもできない。特に若い作家の作品を見る時、何を描いたら良いのか迷っているように見えることがある。描いても確信は得られない。わからないまま手探りをしている、ようにわたしには見える。

その中で、新しいやり方でなにかを掘り当てる人がいる。新しいレアメタルとかなにかを見つけるみたいに。なにか“新鮮さ”のようなものだ。みんなは驚く、なんで思いつかなかったのだろう?それはそこにあったのに?自分にも見えていたはずなのに?それはたぶんちょっとしたやり方の違い、ちょっとした視点の差、見過ごされていた小さな何かなのだ。

彼らは、ああいうものをどうやって見つけるのだろうか?料理で考えるとわかりやすいんじゃないか?と勝手に思っている。たとえば、「肉じゃが」という昔からのレシピが、お店でしゃんとした新鮮な「ネオ肉じゃが」とでも呼びたいような一皿になって出てきて、はっとすることがある。「オリジナル肉じゃが」を知らなければ「ネオ肉じゃが」は作り出せないような気がするのだ。クラシックを学ぶことは、まさに創造の種なんじゃないだろうか。

今回の企画展は、新旧、師弟の作品を目の前で比べて見ることができる貴重な機会でもあり、比べて見るからこそ、新しい方の作品に込められた工夫や独創性、面白さがかえって浮かび上がってくるように感じた。

たとえば、岸田劉生の『野童女』という、不気味な笑顔の少女の像(娘麗子を描いた数多くの作品のなかでも、ちょっと不気味かな?という作品のひとつ)は、寒山像(わりと不気味よりなことが多い)とつながっている!なんて、今回はじめて気がついたことのひとつだ。(画像は図録より、上が岸田劉生『野童女』、下は伝顔輝『寒山拾得図』)(岸田劉生好きなので、disっているわけではありません、念のため)

また、中国の緻密で緊張感のある図像や大陸風の理性的な描写が、若冲や探幽など日本の作家の手で描かれると、どこかやわらかさをまとったり、中国の自然主義的な精密描写が、装飾化されデザイン化されていることにあらためて気づいたりして、日本風、和風とはなんだろうということについて感じるところがあったりもした。

さらに企画展の題名「名作誕生」が示すように、当然ながらが多数の名作に出会えるのがうれしい。霧のなかの松林を墨一色で描いた、長谷川等伯の松林図屏風(トップ画像)も、1年ちょっとぶりに出品されている。この恐るべき作品をん10年前にはじめて見たとき、絵の前で動けなくなってしまった。

文章はまとまっていないけれど、企画展の方は、仏像から工芸品、屏風から風俗画や洛中洛外図まで、雪舟から宗達若冲光琳岩佐又兵衛岸田劉生まで、幅広く優れた東洋・日本美術史をまとめて見ることができる。会期は今月5月27日まで。私は会期の最初の方に行ったのでまだ空いていて、比較的ゆったりと見ることができたけれど、後半になるにつれて混むので早めに行った方がよいかもしれません。

では、今日もすてきなつながりのある1日を!

画像参照:東京国立博物館

アキール・シャルマ「ファミリーライフ」読書メモ

相変わらずご無沙汰ですが、今日は連休最終日。例年連休は音楽祭が主なのだけれど、そうは言いつついろんな美術展にも行ったし、何冊かの本も読んだ。

ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)なかでちょっと印象的だったのが、‪アキール・シャルマの自伝的小説「ファミリーライフ」。最近ちょっとSNSなどで気になっていた、きょうだい児の問題のことも思い出しつつ読んだ。たまには読書もアウトプットしよう、というわけで読書メモを書いてみます。

ネタバレにならないように気をつけつつちょっとだけさわりを書くと、主人公はインドからアメリカに移住した家族の次男。優秀な兄が進学校の受験に受かったとたんに、事故で脳を損傷してしまう。その日から、すべてが損なわれた兄を中心に回り出す。すくなくとも、弟から見るとそういう風に見える。

そのなかで、主人公の少年の兄への愛情が、すこしづつ形を変えていき、なにか得体の知れないものに膨れ上がっていく。家族そのものも、兄を中心としてその形を緩慢に変え、ゆがんでいくなかで、幼い少年もまた同じように環境に歪められ、ある意味環境に訓練されて大人の男性になっていく、その様子が丁寧に描かれている。

それに加えて、移民として生きるなかで主人公が感じる、祖国や「白人」たちに対するへの屈折した思いなどもリアルに語られている。

家族というのは、単純にふたりの人間が生み出すシンプルなものではなくて、過去から受け継がれた文化や宗教や、周りの環境のすべてを吸い込み、巻き込みながら、いつのまにか大きくて深い闇のようなものを抱えるのかもしれない。そしてその無数の小さな闇から、わたしたち人間は生まれてきて、その闇によって訓練され、歪められて大人になっていくのだ、たぶん。

歪んだ人間が作るから家族が歪むのか、家族が歪んでいるから人間が歪むのか。卵と鶏みたいな話だけれど、それでも、歪んでいるなりに愛もあり、救いもあるのが家族のややこしいところかもしれない。そもそもが割れ鍋に綴じ蓋なのだから。

たぶん人間もまあそういうものなのだ。あばたもえくぼ?歪みこそが個性、歪みこそが魅力なのかも、しれませんよね。

では、今日もあなたらしいステキな1日を!

◼️ファミリー・ライフ (新潮クレスト・ブックス)

エリーザベト・レオンスカヤのシューベルトとロシアのVibe

前回のブログから、まただいぶ時間が経ってしまいました。忘れる前に、この間行ったエリーザベト・レオンスカヤのシューベルトチクルスのことを書いておきます。というか、そこから派生したいろんな考え事が主だけど。

エリーザベト・レオンスカヤは、1945年ジョージアグルジア)生まれの72歳(4月現在)。モスクワ音楽院で教育を受け、78年にソ連からウィーンへ亡命している。ジョージア生まれのピアニストというと、若い世代ではお色気たっぷりのカティア・ブニアティシヴィリがいる。彼女は亡命しなければならなかった厳しい時代のことを知らないかもしれない?

それはさておき、深く、まっすぐ突き刺さってくるような美しい音の響き、ロシアンメソッドの長いレガート。どこかリヒテルを彷彿とさせるような、大きく素晴らしい演奏だった。レオンスカヤは、みんなが兄貴と呼ぶのもうなづける、すごくカッコ良い女性で、出てきて椅子に座って、あまりに素早く弾きだすところも、ロシアのマエストロに共通(笑)。モスクワ音楽院では、ピアノの前に座ったら、ぼけっと瞑想してないでとっとと弾きなさいよ、とか教えるのだろうか?(←冗談)

クラシック音楽が、たとえば美術など「モノ」が残る芸術表現とは大きく違って面白い点のひとつは、昔のものをひっぱり出して演じる「再現」であるというところだと思う。音は生まれたと思ったら、すぐにあっというまに消えていく。昔の音楽は、楽譜が残っていたとしても、どんな風に演奏されたのか実は誰も知らない。研究者がせっせといろんな資料をあたり、たぶんこんなピッチで、こんなテンポで、こんな風な装飾音をつけて演奏したんだろうと言う。そのせいで同じ作曲家の作品の演奏も、時代によって変わっていく。

それでも、楽器も昔と同じではないから同じ音は出ないし、演奏技法も今とは違う。だから演奏家は、ざっくり言って、考古学のような「再現」と、作曲家の精神の表現の「再現」のバランスをとりながら、それぞれがいろいろと感じたり、考えたりしながら演奏を組み立てていくことになる、んじゃないかと思う。わたしは別に演奏家じゃないので、推測だけど。

これがたとえば美術であれば、経年劣化や修復保存の問題はあるものの「もの」として残っているから、歴史的な背景を理解しているかいないか、といった点が鑑賞の質に及ぼす影響は大きいにしても、単純に残された「もの」としての作品をそのまま鑑賞すればそれでおおまかには良いのである。

だから、素晴らしい演奏家によって素晴らしい演奏がなされた時、それがどのくらいの割合まで作曲家のもので、どのくらいが演奏家のものなのだろうか、と思うことがある。あといくつか付け加えるとすれば、演劇などと共通する、会場の音響とか、鑑賞者の集中力が加わって作られる「場」みたいな要素もあるわけで、クラシック音楽の楽しみは、本当に一回性のものだなあと思う。そういう偶然性みたいな要素を嫌って、ライブ演奏をやめたグレン・グールドみたいな人もいるわけだけれど。

話が逸れたけれど、レオンスカヤの演奏を聞いていて、それはたしかに本当に自然でふかぶかとしたシューベルトだったんだけれど、一方である音のようなものをずっと感じていたのだ。

それは、ロシアにいる時に感じる、地下に滔々と流れる見えない不思議な深い大河の流れのようなバイブ(vibe)だ。

彼女はジョージアの人だとわかっているのだけれど、私はジョージアには行ったことがないので、もしかしたらバイブが似通っているのかもしれない。または、ロシアの教育を受けたからとか、当時ジョージアソ連圏だったからかもしれない。とにかく感じたことなので、論理的な説明ができない。ジョージアに行ったらころっと言うことが変わるかもしれない。

以前、国によってバイブ(vibe)が違うよね、みたいなことをブログに書いたことがあると思う。このVibe、英語ネイティブは「NYとLAのvibeってぜんぜん違うんだよね」みたいに使う。もともとはヒッピー用語だったみたいだ。日光の差なのか、空気なのか、言語なのか、人々の雰囲気なのかわからないけれど、とにかく国によって、土地によって、バイブは違う。私にとって旅行に行くことの、たぶん一番大きな楽しみのひとつはいろんな国のバイブを味わうこと、みたいなところがあると思う。

その国のバイブを味わうと、音楽や文学、美術の味わいがぜんぜん変わってくる。プラハに行く前のカフカと行ったあとのカフカは違う。ロシアに行く前と行った後のドストエフスキーも違う。作品が俄然立体的になって、陰影を深める。ただ、作品に出てくる地名の場所に行ったことがある、ということじゃないと思う。もちろん人それぞれのバイブみたいなものもあるのだけれど、やはり祖国のバイブは遠くから響いてくるのだ。

どこかに出かける時に、その国の作家の本を持って行くという人が多いけど、じつは、バイブと関係があるのかもしれないと疑っている。実を言うと、私は行く国の作家の本は持っていかないのだけれど。本は帰ってきてからのお楽しみなのだ。帰国してから、行ってきた国の作家の本を読み直すと、まるで、モノクロの映画がカラーになったみたいに、鮮やかに体のなかに入ってくる感じがある。映画『オズの魔法使い』でドロシーが、魔法の国に一歩踏み出すと、画面がカラーになるみたいな感じ。

ロシアの巨匠(旧ソ連も含めて)たちのうちの数人に感じるのは、やはりロシアのあの遠く深い、地下からどうどうと響いてくるようなバイブだ。それが私の体の中に記憶として残っていて、演奏と響きあう。

以前、ロシア人の若いピアニスト(忘れてしまった)が、ロシアは西洋芸術が入ってきたのが遅れて、ロマン派の時代だったので(サンクトにいくとよくわかります)、ロマン派の影響がとても強くて、いまだにそれが残っているところがある、といっていたのを思い出す。豊かで深く、強いロマン派の感情。それはロシアのバイブの深さとしっくり合って、だからこそ残ったのかもしれないなあ、なんて思ったりもする。

シューベルトが、彼女の演奏を聴いたらどんなふうに感じるのだろう?また来年もきて欲しいなあ。

■曲目
シューベルト ピアノ・ソナタ 第11番 へ短調 D625
さすらい人幻想曲 ハ長調 D760
ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960

◾︎ Elisabeth Leonskaja - Schubert Piano Works

なんとシューベルトがたっぷり 6CD入って2000円の激安CD。ABQと共演した「ます」も収録されています‼︎

ところで、私が行きたいところは本当にたくさんあるのだけれど、ここ数年行きたいと騒いでいる国のひとつはインド。インドに行って、サルマン・ルシュディとジュンパ・ラヒリを読み直したい。でも、みんなに止められるので難しそうですけれど。あ、あとコロンビアに行って、ガルシア・マルケスを読み直したいけど、こちらもやはり反対されそう…。危ないところばっかりですよね、どうも。

ということで、今日もすてきなバイブの1日を!

注:このシーンが、テクニカラーが初めて映画に使われたシーンだ、ということがよく言われているけれど、それはうそです。1930年前後にテクニカラーを使われた作品はすでに存在しました。

画像参照:ぶらあぼ 春祭ページ この画像のレオンスカヤが格好良くて好き。 C)Marco Borggreve

オペラ『ローエングリン』と、楽園追放

春の音楽イベントも増えてきました。ちょっと前になりますが、4月15日に終わった春祭で、ワーグナーのオペラ「ローエングリン」に行ってきたので、好き勝手に感想を書きます。一般的な解釈ではないと思いますので、読んで頭にきた人は、ぜひ教えてください。堂々とあやまります(←笑)。

ローエングリン」とグリム童話

聖杯騎士ローエングリンと姫エルザの恋の物語「ローエングリン」の原作はグリム童話の『ブラバントのローエングリン』です。

この物語を読むと、オペラの原型がよくわかります。エルザは自分を救ってくれた騎士ローエングリンが課した「自分の素性を聞いてはいけない」という約束を守り、しばらく幸せに暮らしますが、ある事故をきっかけにエルザの心にはローエングリンへの疑いが生じ、禁忌である素性を尋ねます。そしてローエングリンは彼女の元を去ってしまいます。

グリム童話は、グリム兄弟によってまとめられたドイツの民話集です。人間の姿に化身したなにかが、素性を聞いてはいけないとか、見てははいけない(=ほんとうの姿を知ってはいけない)という約束をさせるんだけど、最終的には約束を破ってお別れになってしまうという話は、ご存知のとおり世界中の神話や民話に似たようなものが見つかります。日本にも、たとえば鶴が妻となって恩返しをする鶴の恩返しや、黄泉の国に妻を取り戻そうとするイザナギの話、スサノオが豊穣の女神を殺した話などが、どこか似ているなあと感じるのはわたしだけではないと思います。

でも、オペラ「ローエングリン」を見ていると、どうも「素朴な民話をそのままオペラ化してみました」という作品には見えないんですよね。

その鍵を握っているのが、純真素朴なエルザに、ローエングリンへの疑いを吹き込んだオルトルートという魔女の存在です。魔女オルトルートは、2幕でキリスト教以前の異教の神々の名前を呼び、この話がキリスト教とそれ以前の古代の神々の対立でもあることを暗示します。これは原作にはないワーグナーによる設定です。今回の舞台ではペトラ・ラングが、邪悪な(笑)オルトルートを演じていました。

エルザは、魔女オルトルートにそそのかされてすっかりその気になり、ローエングリンに素性を聞いてしまいます。そのエルザを演じたのは、若いソプラノ、レジーネ・ハングラー。若々しい乙女のような声質、どこか愚鈍で冷たい表情で、純真で単純ながら、ちょっと知りあいのおばさんにどうこう言われただけで、心から愛していたはずの恋人を疑ってしまうエルザの愚かさや、情のなさみたいなものを感じさせる演技でした。

さて、素性がバレたローエングリンはエルザの元を去ってしまいます。ローエングリン役は、去年「タンホイザー」で主役を演じたクラウス・フロリアン・フォークト。輝かしく美しい声質と、ヒーローヒーローしたイっちゃった演技は、エルザを含む人間たちが抱く疑いや悩みといった人間的感情を理解できない神々の世界に属するローエングリンそのもの。迷えるダメ男タンホイザーの時は、実はそれほど良いとは思わなかったのですが、この真逆な役はたしかにはまり役。

全体的な感想でいえば、やはりフォークトが当たり役だけあって群を抜いてよかったなと。ペトラ・ラングは存在感はすごかったけど、なんとなく、わたしにはちょっと邪悪すぎました。たしかに悪役なんだけど、魔女オルトルートは、ただの邪悪な悪役でいいのか?

「疑う」エルザとオルトルート、そして楽園追放

キリスト教的なヒーロであるローエングリンの一方的な命令に近い禁忌は、キリスト教という一神教の粗暴性や暴力性みたいなものを匂わせるところがあります。ちょうど閉演後にも夫と話してたんだけど、女性の立場で見れば、突然白鳥(がひく小舟)にのってやってきたイっちゃった超イケメンヒーローを「こいつは一体ナニモノ?」と疑うのは、自然なことだと思うんですよね。むしろ、最初疑わなかったエルザのほうがおかしい。育ちが良すぎてボケすぎ。

むしろ、魔女オルトルートに言われたのがきっかけとしても、ローエングリンを疑いはじめ、「だって、あなたは白鳥が来たら、またどこかに行ってしまうんでしょう。そうしたら私はどうなるの?素性を明かしなさいよ」と攻めるエルザのほうが、人間として自然です。ローエングリンがいなくなった時に子供でもいたら、シングルマザー・ワンオペ育児確定です。父親が誰だかさえわからないとか、もうほんと無理(ですよね?)。

輝かしく尊いオレ様(キリスト教)を、疑問を持たずに誰だかもわからずに「とにかく信じろ」というのが、ローエングリンの非常に一神教教的な立場なのであって、その暴力性を告発し「こいつ怪しいぜ」とエルザに人間として「疑う」ことを教えたのが、古代の神々を象徴する魔女オルトルートなのです。

結局ローエングリンは去り、エルザは見捨てられてしまいます。それはキリスト教的な神と人間の関係性とそっくりです。「信じなさい、ならば救われる」世界では、信じないものは救われないのです。でも、本当なのだろうか?「信じれば救われるのだろうか?

ワーグナーのオペラ『ローエングリン』よりIn fernem Land(はるかな国に)。ローエングリン(クラウス・フロリアン・フォークト)は、エルザに聞かれて自らが聖杯騎士であると明かす。

そういえば楽園で知恵の樹の実を食べ、疑うことを覚えて楽園から追い出されたのもまた女なのです。オルトルートは旧約聖書でイブに知恵の樹の実を食べてみよと誘った蛇なのかもしれません。イブは疑うことを覚え、楽園を追放されます。その姿は、疑うことを覚え、ローエングリンに捨てられるエルザと重なります。

もしそうだとしたら、この話では旧約聖書が繰り返されているのだろうか?いや、エルザはどこにも追放されず、行方不明になっていた弟の王子は見つかります。ローエングリンが去ったエルザの悲しみ以外には、悪いことはなさそうに見えます。あとは人間同士でやっていけばいいんだから。

むしろわたしには、エルザがオルトルートに導かれて身につけはじめた「疑う」という生き方は、キリスト教以前にあった人間らしい生き方 − 自分の知性を使って考え、生きる − ことを取り戻す道につながっているように見えるのです。そういえば、イブと一緒くたに追放されたアダムは、とばっちりだったのか?それともイブに導かれたのか?

多神教の国に生まれ育ったわたしとしては、オルトルートはたしかに悪役なんだけど、もしかしたらもうすこし繊細にちょっとだけ違う描かれ方、演じられ方をしても良いのではないかと思ってしまうわけなのですが(それを言ったらエルザもそうだけど)。でもやはり悪役は悪役なんですけどね。旧約聖書の蛇も悪役だしね。

ワーグナーに、「ねえねえ、ここだけの話、本当はオルトルートのことをどう思っていたんですか?」と聞いてみたくなったりするのです。

クラウス・フロリアン・フォークトのちょっと若いローエングリン。いやでも、今回の舞台でのフォークト、何度も若者に見えて目をこすりそうになりました。実際は47歳、すごいなあ。みなさん呼称が、フォークト「さま」と「さま」付きなのが、どんなローエングリンだったかを如実に物語っています(笑)。

大人気テノールヨナス・カウフマンローエングリン。彼はちょっと鼻にかかった暗い声でだいぶ違う役作り。

こちらも『ローエングリン』よりIn fernem Land(はるかな国に)。ヨナス・カウフマンローエングリンは、なんとも悲しそうに切々と歌うのでなんだか可哀想になってしまう。人間的なローエングリン。死んでるし。

さて、今日も人間的な1日を!

クレーマーと自分軸

突然アレですが、リアルで見聞きしたことがきっかけで、ここしばらくもやもやと考えていることに落とし前をつけたいので(?)、ひっそり書いてみます。ちなみに別に私は心理学の勉強をしているわけじゃありません。ただ思っただけ。

クレーマーとかモンスター○○という人たちの共通項を観察していていくつかのことに気づきました。
1. 中高年(around 40以降)が多め
2. 女性が多め
3. 人生がハードモードっぽい

3に関しては、観察した例を見ていくと、たとえば共働きほぼワンオペ子育て中の母親であったり、経済的に豊かでなかったり、独身で親の介護をしていたり、仕事が思い通りにはいかなかったり、うつのような精神疾患を抱えている人だったり。

そんな彼らがクレームを言う姿を見ていて、「わたしを大切にして」というメッセージを感じてしまうのです。

別に何か怪しいものが見えるわけではもちろんなくて、彼らが言っていることを要約すると、結局「わたしを大切にして(しろ)」なんじゃないかなということです。わたしには、一種のSOSのように見えなくもないのです。まあ、みんな薄々感じていることだと思うけど、彼らは可哀想なひとたちでもあるのです。

で、ふと彼らの人生は、結局ずっと他人軸だったんじゃないかなと思ったのです。子供のため、親のため、夫(妻)のため、会社のため、上司のため、お金のために、長い長い間、自分の人生を後回しにしてきて中高年になった時、「もういい加減、わたしを大切にして!」と、感情が吹き出してしまっているのかもしれないなあと。

ちなみに脳科学者によれば、中高年以降は本音がダダ漏れになるそうです。言ってはいけないことを言わないでおく、という制御が弱くなる。寒い親父ギャクなんかも、面白くないことがわかっていても口から出てしまうのかもしれません(あれれ?)。

親父ギャクなら無視していればいいんだけど、クレーマーの場合、自己制御が弱くなったタイミングで、正常な時、若い時は隠してこれたアレコレが、吹き出てしまっているのかも。まあ、医者でも学者でもないんで、わかりませんけど。

もちろん、いろんな事情をかかえたいろんな人生があって、綺麗事じゃないとは思うんですが、クレーマーにならないように、爆発する中年にならないためには、実は、一見逆のことに見えるけど、自分を明け渡さない、自分軸を手放さない、時には利己的に見られても、自分を大事にすることが重要なんじゃないかなあと思ったのです。(まあ、もともと利己的で自分のことしか考えない方には周りのことを考えろって感じですが)

もし、すでに爆発中年になってしまった方には、大変だったよね。でも、自分でご自分のことをほんとうの意味で大切にしてきた?と、まあ問いかけてみたいのです。たぶん、誰かに粗末にされてしまったとか、誰かに粗末にされることを許してしまったとか、そんなことはありませんでしたかー?(誰に?)

そんな人をみるたびに、これからはもっと自分を大切に、自分の人生を歩めるようお互いに頑張りたいよね、なんて心の中で思ったりするのです。

散歩中に出会ったのら猫。びっくりした目で見ていましたが、猫用チーズをあげたら夢中で食べていました。

今日も一度しかない1日、ひとに求めるよりも、自分の人生を見つけて楽しみたいですね。

ボスコ・ソディ "Terra è stata stabilita"など。

ちゃんとまとまっていないけれど、忘れてしまう前に備忘録を兼ねて最近見たもののなかからふたつ、印象に残ったものをメモ。

ボスコ・ソディ "Terra è stata stabilita"

ラテン語で「大地の確立と安定」を意味する本展のタイトルは、ローマ帝国の全盛期について書かれた書籍の一節であり、ローマ帝国の国土拡大路線を放棄して、国境の安定化と紛争の鎮静化とへと導いた賢帝として知られるハドリアヌス(76〜138年)に言及しています。 Exhibitionページより引用

メキシコ生まれの美術家、ボスコ・ソディの数年ぶりの個展。今回も「土」と「大地」を感じさせる作品。とても好きな作家だ。

会場の中心には野焼きで作られたという赤いレンガが積み上げられていた。参加型の作品《Cubo》だ。会期中すこしづつ少なくなっていく様子が撮影されるのだそう。まわりの壁面にはすこし手を加えられた古い植物の図版(古い本のページ?欧州のマーケットで良く見るようなもの)に手を加えたシリーズ作品が取り囲む。土のマッシブな質感と、土に養われ、命をつなぐ植物たちとの関係が暗示されているように見える。

地球の一部である命たち。それは私たちも同じだ。土に養われ、生かされている。体の内部からふしぎにあたたかいものがじんわりと広がるような気がした。

レンガを持ち上げてみると、見た目よりもずっとずっしりと重かった。

ひび割れた分厚いマチエールの美しい平面作品の素材は聞き忘れてしまった。ひび割れた大地の力強く、ある意味荒々しい存在感を、白色が沈め、精神的な作品に変える。

蓮沼執太: ~ ing

サウンドをメインに構成したインスタレーション。音の力、圧でゆれる植物。会場に来た人がたてる音、喧騒に近い。音と気配、音と力、音と暴力。

わたしはけして神経質な人間ではないと思うのだけれど、音にはかなり過敏なほうみたいだ。自然の音は良いのだけれど、人口音はかなり辛い。掃除機、電車の轟音、車の音、横断歩道の電子音、スマホの呼び出し音、音は遠慮なく飛び込んできて、私は混乱して、疲れてしまう。ノイズキャンセリングイヤフォンは、私にとって都会のサバイバルツールだ。

美しいわけでも、心地よいわけでもない、どちらかというと音の質としては不快だったのに、なにかがひっかかった。ひっかかったものは、ひっかかったままに置いておこう。

・・・

相変わらず、いろんなものを読んだり、見たり、聞いたりしていますが、いろいろあってブログの更新ペースがゆっくり。アウトプットすると、自分の頭のなかが整理できたり、経験が深まるので、なるべくブログにしたいけど、そういう時期もあっていいのかな。地下に潜っているけど充実してる、みたいな感じです。

では、みなさまも今日も充実した1日を!

猪熊弦一郎「猫たち」展と「遊び」の精神

いろんな猫たち

人間界にいろんなひとがいるように、猫界にもいろいろな猫がいる。わたしの個人的な統計によれば、猫にもやっぱり頭のいいのとすっとこどっこいなのがいて、頭が良く注意深い猫には、個人的に一種尊敬を覚えたりする。でも、すっとこどっこいな猫も、なんというか同病相哀れむ的な親しみを感じて、また捨てがたい良さがある。

要するに猫好きというだけじゃないか、ということかもしれないのだけど。

以前話をしたジーは、かなりすっとこどっこいなほうで、やつが走るといろんなものがぶっ倒れたり、ぶっ飛んだりした。たぶんあまりにも夢中で周りが目に入らなくなるのだ。ああ、他人事とは思えない。一方、急いでいても鉛筆一本転がさない優秀な猫もいた。ジーはバカなことをしては優秀猫によく怒られていた。優秀猫パンチが飛ぶと、ジーはシュンとしてうつむく。まるで「ぼく反省してるよ」とでも言うように。おかげで人間は怒る手間がいらなかった。

猪熊家の猫たちと猪熊弦一郎「猫たち」展

田園調布の猪熊弦一郎宅には、ものすごくたくさんの(多い時期にはダース単位の!)猫がいて、しかも去勢をしていない雄猫がオシッコをしてまわるものだから、玄関から動物園のような匂いがしたそうだ。(ご存知のない方のために、盛りがついた雄猫の尿は、ほんとうに強烈な匂いで、洋服や布にかけられたら最後。洗濯してもまず落ちません)

猪熊ほどの数の猫を飼ったことはないけれども、猫がたくさんいる生活は楽しい。一匹だけ飼うのもいいけれど、多頭飼いも味わい深い。一匹だけだとわからないそれぞれの猫の個性が際立って、ちょっとした社会が形成される様は、まるで人間を見ているようだ。社長猫、部長猫、課長猫、ヒラ社員猫もいる。それぞれがかわいい。

というわけで(どういうわけで?)、Bunkamuraで開催中の「猫たち」展に行ってきた。じつはちょっと、「あざといなあ」と思いつつ。猫ブームの昨今、はるばる和歌山県まで猫駅長に会いに行く人がいるという。猫にまたたび、猫好きに猫。べつに、猫を目的に行ったわけではないんだけど。いや、断じて、違うってば。

今は三越の包装紙や馬や猫の絵のほうが有名みたいだけれど、私がはじめて猪熊弦一郎を知ったのは、抽象絵画だったと思う。カラッと明るい色彩や形は、今考えてみると、アドバイスを受けたというマティスの影響もどこかにほんのりと感じさせる。大画面はいかにも猪熊が暮らした当時のアメリカ的だ。米国では、今も猪熊は抽象画家だと思っている人のほうが多いんじゃないだろうか。

のちに丸亀にある猪熊弦一郎現代美術館に行った時に、恥ずかしながらちょっと驚いた。壁におどる自由な馬たちは、自由で開放的ではずむような遊び心にあふれていた。単純な線はうきうきと踊り、動いていないのにまるで動いているような躍動感を持っていて、どこか古代の壁画を思い起こさせた。

機嫌の良い家猫たちと遊びの精神

今回の企画展は、猪熊の描いた猫の絵を中心に構成されていたが、描かれた猫はほとんどは猪熊家の家猫たちなのだろう。野良猫のような強烈な生命観や、生きるか死ぬかの真剣な野生がないかわりに、そこにはやはり「遊び」があった。体が大きくなっても、心はどこか子供のままの、甘えん坊で気ままな機嫌の良い飼い猫たち。いがみ合う雄猫でさえ、その喧嘩の様子は、どこか人間同士の喧嘩のようだ。

抽象表現主義の大きなタブローも良いけれど、大好きな馬や猫を描いた時、猪熊はまるで無心な子供のようだ。線に喜びが溢れ、遊びのたのしさと嬉しさ、はしゃいだ笑い声が聞こえてくる。

でも、そんな作品を見たあとにあらためて抽象表現主義的なタブローの前に立つと、あの楽しい猫や馬を描いた同じ人の心のなかの子供の、無垢な遊びの精神や笑いがそこかしこからやっぱり立ち上ってくるのが見えてくるような気がする。

作品を見ているうちに、いつしか「遊び」はすごい、と考えはじめた。人間だけが遊ぶわけではない。どんな生き物も、野生の動物たちも、幼いものは夢中で遊ぶ。飼い猫や飼い犬が大人になっても遊ぶのは、動物は人間に飼われると精神が子供のままで止まるからだという話をどこかで読んだことがある。まさに永遠の子供(子犬、子猫)なのだ。

でも、じゃあ大人になったら遊ばないのか?と自分の身を振り返って考えてみると、真面目な顔をして眉根にシワを寄せ「忙しい、忙しい」と言っているけれど、実は秘密で遊んでいるのかもしれない。真面目なふりをしているけれど、これは大人の秘密です(笑)。

その間にも、小さな子供たちは駆け回り、顔を真っ赤にさせて笑っている。真偽のほどはおいておいて、遊びは命が外にあふれてほとばしったしぶきみたいなものなのかもしれないなあ、なんて思うのである。

◼️ねこたち (猪熊弦一郎猫画集)

◼️猪熊弦一郎のおもちゃ箱: やさしい線

というわけで、私は「忙しい、忙しい」とあたまから湯気をだしていますが、そのくせたぶん半分くらいは夢中で遊んでいるのだと思います。のんびり遊ぼう。

では、今日も、大人も子供も、思い切り遊ぼう!

*トップ画像:Title Unknown, 1987/画像参照:Bunkamuraザ・ミュージアム

会期は4/18まで。

桜と日本と怪しい話と震美術論を読んで思ったことをだらだらと書く

子供時代のわたしは、ほしいものがあってもなぜか恥ずかしくて、どうしても「欲しい」と言えず、めずらしくほしいものに手を伸ばしても「本当にほしいのか?」と自問してやっぱり手を引っ込めてしまうような かなり面倒くさい子供だった。というか、周りから見れば聞き分けが良くておとなしい子だけど、本人はいちいち悩んでいてかなり面倒くさかったのだ。

今考えても、子供時代のわたしにインチキな関西弁で「なんでやねん?」と突っ込みたくなってしまう。子供バージョンのわたしの、自分のほしいものに対する屈折具合はなかなかのものだったと思う。

そのせいなのか、私はわりと昔から「ものを持たない」人生にファンタジーを感じてきた。

怪しい話になってしまうので、お嫌いな方はここでページを閉じていただいたほうが良いかもしれない。実は、この屈折は、自分の過去生の記憶らしきものと関係があるのではないかと思うところがある。わたしには過去に街ごと焼けるような大火災にあって(たぶん)死んだ記憶がある。多分というのは、死んだ後の記憶っぽいからだ。

その時の「ああ、なにもかもが焼け野原になってしまった」という、悲しみでもなく嘆きでもない、ひどく乾いた灰色の感慨のようなものが、今の私の根幹に深く根を張っているような気がする。

それでも残った執着を、無理やり言葉にするとすれば、「持っていけるだけの特別なもの」への執着だ。それでも、生活に必要ではないなにか美しいものを手に入れるたび、うっすらと不安を感じる。「持ち切れるだろうか」みたいな 。今のところ引っ越す予定もないのに。とほほ。

「もの」をたくさん持つことは、積み上げた「もの」を「錨」にして停泊し続ける生のような気がする。「モノ」が多ければ、すべてを運んで移動することはできない、という単純な理由が、案外その場所にずっととどまる理由になるように思うのだ。

私がものを少なく持つことを願っていた理由は、紛れもなく「ここから移動する」「ここから消える」ためで、それは私の頭のどこかしらに常にこびりついていて、抱えきれないほどの荷物は持つべきではない、と常に私にささやきかけている。

そして、同時に「喪失に対するあこがれ」も、めんどくさいことに、どこかにあり続けている。いっそのことすべて無くしてしまったら、という薄ぼんやりとした憧れ。現実では、小銭を落とすのも嫌なのに(笑)。

捨てられた死者のための花

ほとんど誰にも話したことのないそんな話を突然なぜ書き始めたかというと、椹木野衣さんの「震美術論」を読んだから。日本は常に災害に見舞われる「悪い場所」であるというのは椹木さんの持論でもある。歴史を積み上げる欧州とはまったく違う、本当にはかない土地だよね。

このはかない土地で大きな災害が起こるたびに、日本人は築いたものも愛する人や故郷も失い、沢山の涙を流して死者を葬いながらも、前を向いて歩き出し、生き続けてきたのだ。この7年間だって。

そんな日本人の私たちが桜の花を愛するのは、まあやっぱり当然だなあと思ってしまう。いささか通俗的だけど、命の儚さと美しさを同時にこれほど感じさせてくれる花もない。

そういえば、都内で見られる見事なソメイヨシノの多くは、戦争ですべてが焼け野原になった後植えられたものだ。わたしのなかの焼け野原の記憶と、見たことのない東京の想像上の焦土のイメージはいつでも二重写しに重なってしまう。

あちこちで見た桜の写真尽くしで、 今週のお題「お花見」。

千鳥ヶ淵(最後の写真)は20年前はもっと見事でした。そろそろ今年の桜も終わりですね。桜吹雪を楽しみつつも、ちくちくと胸を痛めたりしています。

今日もステキな1日を!

学生時代は評論もたくさん読んでいたけれど、卒業してからはあまり読まなくなった。でもたまに読みたくなるんですよね。「なぜこんな場所に美術館を?」という疑問文は、「なぜ、わたしははこんな場所に生き続けているのか?」と目に飛び込んできてしまう。そういう読み方しかできないのか?と言われてしまいそうだけど。大災害の持つ力、欧州との比較、美術館の問題、過去の日本の災害と先の震災、現在の日本の美術についてなど。