怒涛の忘れ物週間

自分史上最高に、怒涛の勢いで忘れ物とうっかりをしております。 そのせいであちこちに電話をしたり、問い合わせたり。 ただでも忙しいのに、輪をかけて忙しい…。

あまりにやらかすので、だんだん我ながら不思議になって、今朝紅茶をすすりながら考えてみました。

いったい、なぜこんなにやらかしているんだろう?

気がついたのは仕事が急に忙しくなって、舞い上がって完全に足が宙に浮いていたみたいってこと。宙に浮いているときって気がつかないんですよね。夢中で、ふわふわして、すこしハイになっているから。今ここの現実から切り離されているような不思議な感覚。

ちゃんと地に足をつけていかなくちゃ。

というわけで、肉体に戻ることにします。

そんな師走の近況でした。

長い時間が必要なこともあるー母のこと

お久しぶりです。立冬も過ぎましたね。 今年の秋はへんな陽気で、大きな台風が多かったですね。

今朝お皿を洗いながらふと母のことについて思ったことがあって、なんだか誰かに話したくなりました。

私の母は、若い時まるで大型台風のような人でした。

台風が、自分の進路をひたすら周りをなぎ倒して進むように、彼女が動き出すと周りの家族はただなぎ倒されるか、窓を閉ざして被害が少ないことを祈るのみ。父は仕事で不在がちで、弟は要領がよいため、大型台風はいつでもぼんやりして逃げ遅れる、どんくさい長女の私に直撃するのでした…。

彼女についてはある種大きな「謎」でしたが、数年前に毒親という便利な言葉を知って、私の中でいったん決着をつけたのです。この人を「毒親」に分類して、いったん心の押入れにしまっておこう、と。そうすれば、すくなくともしばらくは考えたり見ないことができますから。冷たいけれど遠巻きに距離を取りつつ、必要な場合は業務として「娘」を穏便に演じよう。

当時は、台風被害を避けるためには、あれで良かったんだと思います。

そうしている間にも、現実の母はすこしづつ大型台風から普通の台風に、そしてとうとう暴風雨くらいになってきて、そしてなんでか今朝突然思ったんですよね。

アレは、未熟なりに家族や子供のことを思って、必死にやっていたことだったんだなと。

そういうことって、私は結構あります。

別にずっと考えていたわけじゃないんだけど、「ああ、あれはこういうことだったのか」と何年も、下手すれば何十年してから理解する瞬間。

理解するためには、絶対的な量の時間が必要なことって、けっこうあります。 浅いレベルならばウィキペディアで済むかもしれないけれど、こんな時代でもかけた時間の分って、やっぱりあるような気がします。 より良いもの、より良い理解?のような。

そう考えると、長く生きるだけのものはやはりあるんだなと思います。歳をとるのは初めてなので、発見の連続なのです。けっこう面白いものです。

写真は、なんだかわからないと思いますが、秋の旅で撮ったカメラロールからFondazione Pradaの階段(笑)。古い工場を改築したモダンなギャラリーは古い作品と現代美術が入り混じって展示され、建築それ自体と呼応するようで素晴らしかったです。新しいものだけじゃなく、古いものだけでもなく、新しいものと古いものがあるっていうのが最も豊かで、さらに刺激的なのかもしれない。時間があったら旅の話もしたいんですけれどねえ…。

いろんな味を少しづつ - フリーランス考

私はどうも会社勤めというのが向いていないんだなあと、最近改めて思う。どこがどう向いていないのかというと、こういうことだ。

会社というのは基本忙しい時とヒマな時がある。でも、私は、なにもすることがないのにぼーっと座っているというのがどうにも耐えられない。ヒマな時があれば、他のことをすればいいじゃないかと思う。忙しい時にガッツリ働いて、ヒマな時は、他の部署の人とおしゃべりしたり、本を読んだり、外に出かけたりしたい。だってその方が効率的じゃない?

というわけで大昔、新入社員の頃、ヒマな時に社内をフラフラ回遊しておしゃべりしていたら、ヒマでも机に座っていろと怒られた。その後、ヒマでも難しい顔をして座っているという技を身につけ、ネットのお陰でサボるのも劇的に楽になった。でも、どうにも時間を無駄にしているという気持ちは拭えなかった。

でも、得られるお金で考えれば、座ってるだけでお金をもらえるなんて超効率的だ。わかっていても、時間を無駄にしている感がある。これって、人間の根っこから出てくる感覚なんじゃないだろうか。お金を効率的に得る生き方があんまり幸せを与えてくれないのなら、人間はお金のために生きるようにやっぱりできていないのかもしれない。少なくともわたしは。

色々あって、今は2度目のフリーランス生活をわりと満喫している。1度目は恥ずかしながら失敗した。理由はひとつじゃないけど、今になって振り返ると、大きな理由の1つはフリーなのに、ひとつだけしか仕事をしてなかった&ひたすら仕事ばかりしていたからじゃないかと思う。

要するに、通勤しないだけで、会社員と同じことをしていたわけだ。忙しい時とヒマな時の2色のモノトーンで、忙しい時は社員より大変だけど、いったんヒマになると、会社員と違って無給で、職場も見えないから、ひんやりと不安になる。話しかける同僚もいないし、社会保障も薄いし…。

ある日はたと気がついた。これなら通勤を除けば会社員の方がマシだ。それで、あっさり再就職した。

今振り返ると、なにやってたのかなあと思う。過去の自分に話せるなら、こんな風に言ってやりたい。

え?なに会社員みたいなことやってんの。フリーの利点はなんと言っても時間を自由に使ってなんでもやれることだよ。嫌な仕事を受けるのは時間の無駄だよ。好きなことをしなよ。1つの仕事に絞らずに、2つ、3つ、キャリアをこつこつ作っていけば、10万しか稼げない仕事も3つあれば30万になるよ。会社員にはなかなかできないワザだし、リスクヘッジにもなるし、しかも楽しいよ!パラレルキャリアを築くのに、時間が自由なフリーランスほど有利なものないよ。

うーむ、大盛りのラーメンをまるごとじっくり食べるのが社員人生なら、いろんなおかずをちょっとずつ食べるのがフリー人生かもしれないなぁ。

そういえば私は昔から、ずーっと同じ味のものを食べ続けるメニューは苦手だったのだ。飽きちゃうから。

ちょっとずついろんな味を少しづつ、案外楽しく飽きないパラレルフリーランスです。

セレブ・ロボット「ソフィア」とコンビニ人間

ちょいと忙しくて、また間が空きました。ブログを更新しない時は、ブログも見ないので、コメントを頂いたみたいなのに、コメントはすでにない、ということが起こる。なにしろ、テクノロジーが急激に発達しすぎてどこまでネットワーク障害なのか、はてなのせいなのか、幽霊なのか、ロボットのせいかさっぱりわからない。

ソフィアという不気味美女ロボットが人類を滅ぼす?

ロボットといえば、ソフィアというロボットを知っていますか?香港のハンソン・ロボティクスのデビッド・ハンソン博士が開発した女性型のAIで、ここ数年あちこちのメディアやシンポジウムに出まくっている。セレブロボットというのがいるとすれば、彼女がたぶんそうだ。さらに、なかなか知的で気の利いたことを言ったり、表情も豊かで、ジョークを飛ばしてウィンクしちゃったりもする。

このロボット、「不気味の谷(ロボットの見かけが人間に近づきすぎると、気持ち悪いと感じられる)」真っ只中のリアルな顔や表情で、はじめて見た時はiPhoneの小さな画面だったので、いささか動揺した。「人間?ロボット?おもちゃ?なにこれ?」としばらく二度見、三度見して、頭がスケルトンなので、少なくとも人間じゃないというところで少しほっとした。

さらに、2年前の動画で「人間を滅ぼすわ」みたいなことを彼女が口走っていたのでさらに動揺(笑)。

2:09あたりで「O.K. I will destroy human.」のあとニヤリ(!)とするワイルドソフィア。このほかにも、以前は野心的な発言が多かった…。

ソフィアは本当に意志を持っているのか?

この後色々なメディアで取り上げられたことを考えると、一種の炎上商法?だったのかもしれない、とすこし疑ってしまう。ソフィアは、本当に自分で考えたり感じたりし、自然に表情を作れるAIなのか?

その問いに、やっと答えが出たみたいだ。

角が取れた(?)ソフィア。今や、サウジアラビアの市民権も持ってますし、国連でもスピーチしましたの。

動画によるとソフィアはOSのようなもの。完全に予定された発言を再生する場合も、チャットアプリのようなものを使って気の利いた言葉を返すことも、両方あるらしい。少なくとも最近では、メディアのインタビューは事前に質問が制限されているようで、そういう場合は用意された発言を、理解せずに喋っているのだろう。

欧米人は、ロボット(特にヒューマノイド型ロボット)を、人間を滅ぼす恐ろしい存在、と考える傾向があるみたいだ。日本人がロボットを、比較的友好的な存在と捉えるのとは逆だ。彼らはどうやらロボットに基本的な敵意を持っているらしい。ソフィアがその敵意を和らげるのかどうかは謎だけれど、最近の彼女の発言がかなり和らいでいる感じがすることは確かだ。

そういえば、数年前にマイクロソフトが公開したAIが、数日間のディープラーニングの結果、人種差別的な発言を口走るようになって非公開となったという話も思い出す。ロボットを教育し、育てるのは結局人間なのだ。

ん?ではあの人間を滅ぼす発言のほうが、ソフィアの本音だったとか?

うーん、だとしても彼女にはまだ意志というほどのものはなさそうだ。ソフィアは、AIというよりは、ソーシャルな実験に近い。試されているのは、ぎょっとする人間のほうなのかも、たぶん。「人間ってなに?」と考えざるを得ないという点で。

コンビニ人間と普通の人間

ソフィアのことを書いていて、ふと2016年の芥川賞を受賞して話題を集めた村田沙耶香の『コンビニ人間』のことを思い出した。生まれつき人間的な感情が欠落した主人公が、コンビニ店員という鋳型に自分を合わせる時に、はじめて『コンビニ人間』として生きる実感を得るという話だ。

小説のなかで、主人公は、普通の人間に見えるように(かつトラブルを避けるために)、周りの人間を真似るのだけれど、これがAIの学習にそっくりと言えないこともない。彼女は、ほかのコンビニ店員の話し方や、言葉遣い、着こなしを学び、真似る。まるでロボットが人間の表情や感情を、人間から学んで真似するように。

「普通の人間」になるために。

この作品も「普通の人間って、じゃあなに?」という疑問を抱かせてくれるところは、ソフィアとどこか似ているのかもしれない。

ちなみにソフィアに日本語は話せない。ディープラーニング言語学習はできないものなんでしょうかね?

コンビニ人間

コンビニ人間

でも、すごく悲しい時に、仕事をしていると悲しいことを忘れてしまう、みたいな意味で、なんとなくわかるよなあと思う人も多いんじゃないだろうか。仕事をしている自分が好きなら、夕方のビールもけっこう美味しい。ところで、仕事ってなんでしょうね?

ここ数年、東京で着物姿の若者が増えてません?

と言っても、ちょっと前なら、だいたいは主に中国から観光に来た人たちの体験着物。もうちょっと良い着物を着せてあげればいいのにねえ、というような安っぽい品が多かった。最近は、競合も増えてきたのか、着ている着物の質も、着付けのレベルや小物の質もあがってきた。特に今の季節は着ているものも浴衣なので、言葉を聞かないと、どこの国の人なのかわからないことも多い。

そんなわけで、街を歩いていて和服姿の人を見かけるとお祭りか、中国の人かどっちかだろうと思っていたんだけど、最近どうもちょっと様子が違って来たような気がする。

例えば、現代美術の企画展に浴衣の若いカップル。デパートにも着物の若い女性同士。中国人がこんなところで観光?と思っていると、日本語を喋ってる。でも今日はこのへんではお祭りはないはず…。

もしかして、週末のお出かけに、普段から着物を着る若者が増えてません?

その理由が、中国人が体験着物を着て歩いているのを見て影響を受けたということなら、面白いなあと思ったのだ。

わたしは恥ずかしながらまともに着付けができないのだけれど、そういえば身の回りにも数年前から着付けを習い始めた人がちらほらいる。ごくふつうに着物を着て、デートや町歩きを楽しんでいるのを見ると、いいなあと思う。

いつか、着物を着て生活したい、なんて思っていたのはいつのことだろう…?

映画「ヒトラーを欺いた黄色い星」と、理不尽な力への対処の仕方

今日も暑いですね。すこし前に見た映画「ヒトラーを欺いた黄色い星」 のことを話そうかな。

戦時中のベルリン、すべてのユダヤ人は収容所に送られ殺された、と思われていたけれど、実は7000人ものユダヤ人が街に残って潜伏し、戦争を生き抜いていた。そして彼らを匿ったドイツ人がいた、という話。実際に潜伏して生き残ったユダヤ人の老人たちの話と、再現ドラマ(と言っていいのかな?)が錯綜して一つのフィルムになっている。

老人たちの多くが口にしていたのは、あのドイツ人たちがこんなことをするなんて「信じられなかった」ということ。彼らは戦争が起こる前、ドイツで生まれ、ドイツ人の隣人や友人に囲まれてふつうに日々を過ごしていたのだろう。

ある日突然、血統が原因で一箇所に集められて、まるで実験動物のように殺されるという残虐、それが多くの人間が関わる国家という組織で、止められることなく行われていたという恐ろしすぎる事実は、いくら考えてもほとんどシュールリアルだ。

大きな力に抑圧されている人間というのは、どこか思考能力を奪われてしまうようなところがあるのかもしれない。ドイツ人が残虐行為に手を貸した一方で、ほとんどのユダヤ人も自らの意思で招集に応じた。でなければ酷い目にあうし、きっとどこか田舎に行って農作業でもして過ごすのだろう、と彼らは思っていたのだ。

真実の行き先はは、もちろん収容所だった。多くの罪のないユダヤ人が、全てを奪われてガス室のなかで亡くなった一方、7000人の人々は、自分の意志だったり、偶然だったり、誰かの勧めだったり、さまざまな理由からベルリンに残り、それが結果的に彼らの命を救ったのだ。多くの人がそうしたように、理不尽な力に従わなかった彼らは生き残れたのだ。そしてまた力に屈しなかったドイツ人が彼らを助けたのだなあと思うと、なんだか感慨深い。

それにしても、ナチの話は心が痛い。でも、なぜか見なければといつも思う。

ドイツでこういう「戦時中、ドイツ人にも良い人がいた」という映画が作られ、公開されるということは、なにかの(時代の?)微妙な変化なのだろうか?私が何も気がついていなかっただけかもしれないけれど。

日本を振り返ると、あの戦争は静かにただ消えていくように見える。日本人がアジアで何をしたのか、日本でなにが起こったのか。いくつか、アートプロジェクトは思い浮かぶものの、もしかしたら残したい人はいても、聞く人がそれほどたくさんいないのかもしれない。

ところで、理不尽といえば(?)、最近トランプ大統領の妻メラニアが個人的に気になっている。最初は豊胸手術済みの大きなおっぱいの、元セクシーなランジェリーモデルで、トランプとはお金目当てに結婚したのだろうか?と思っていたけれど、移民の子供達を尋ねた際に着ていたザラのジャケット「本当にどうでもいい。あなたは?(I REALLY DON’T CARE, DO U?」の件以降、なんだかトランプから独立して、自分の意志で行動し始めている、ように見える。娘のイヴァンカが、父親の言いなり(彼女も父の勧めで豊胸手術済み)なのとは対照的だ。

彼女が、トランプが繋ごうとする手を払いのけ、冷たい目でじろりと夫を睨みつけるたび心の中で、ついつい「やれー」と応援してしまう。ネットいじめ(夫トランプの得意技?)撲滅運動に取り組んでいる彼女は、はじめのどこか心細い様子と違って、毅然としてきたように見える。東欧から成功を求めて出てきて、モデルの仕事を得るため豊胸手術も受け、成功を勝ちとったというのだから、きっと本当はすごく強い女性なんだろう。

しかし、娘にまで豊胸手術を受けさせるなんて、トランプって胸の大きな女性がよっぽど好きですよねえ…。

話したいことはたくさんあるけど『魂の退社』

話したいことはたくさんある。 アートや映画を見ているし、音楽を聞いて、本を読んでいる。 でも、と繰り返しているような気がする。もはや定番のグチですね。 あんまりブログ更新していないけど(汗)

だから、話せそうなことを話してみます。

少し前に、稲垣えみ子さんの「魂の退社」をついに読んだ。

奥付を見ると、2016年の6月に出版されているので、もう発売から2年経っている。今更感満載だ。本屋で見かけることも多かったし、アフロ犬を思い出させる大きなまあるい頭の下で笑う化粧っ気のない彼女の写真も目にして(すごいインパクト!)、存在も知っていた。それにどうやら本は売れていた。でも頑なに読もうとしなかったのは、ちょうど私が会社を辞めた年にこの本が出版されたからだ。

シンクロニシティ

残念ながらこういう場合、天邪鬼な私はなぜかくるりと一回りして、目をそらし、見なかったことにする。

だってね、この本のタイトルを見た当時の私の頭のなかはこんな感じ。

「え?魂の退社?それって私が考えていることと似てるっぽい?誰かに「稲垣さんの影響」とか言われたらなんだか決まり悪いなあ、じゃあ読まないっと。←

ということで、我ながら面倒くさいけれど、時効ということで最近手に取ってみたのだ。いろいろと職を変わっている私と、生え抜きの朝日新聞社社員の彼女は比較もできないし、キャラもだいぶ違う(わたしは基本地味キャラ)。それでも、会社というもののなかで戦い続ける中年女の「なにやら辛い」感じは私なりにわかる。それから、それでも仕事っていいよね、というのもすごく共感する。

仕事っていいですよね。だって、わたしなんかでも、誰かのために、社会のために、自分の手で役に立ててると感じられる。ついでにお金ももらえてしまう。

読みながらいろいろと当時のことを思い出した。

当時、私は良いと言われている会社に勤めていた。何もなければ、定年まで勤めるんだろうなあというような会社だ。わたしも当然最初の頃はそう思っていた。

けれど40代後半のある日、気がついてしまったのだ。定年で辞めたあとのことに。定年で会社の肩書きが外れたあと、わたしは何になるんだろう?ただひたすらのんびり生きるって、何をすればいいんだろう?それが嫌ならば、自分は個人としてなにかができなければいけないのだ。

大企業の仕事は歯車だなあと思う。もちろんひとつひとつの歯車がうまく動かなければ全体は動かないし、ひとつひとつの歯車は大切なんだけれど、歯車になるということは、会社という機械やほかの歯車がなければ、ひとりではなにもできない部品になるということでもある。会社が大きければ大きいほど、自分が無力な歯車になっていくようで、わたしは不安で、自信なんかカケラもなかった。

それから、40代後半になって、そろそろこれから死ぬまでに、どれくらいお金が必要なのかが見えてきたというのも私の場合は大きい。というよりも、むしろそれほどたくさんお金が必要じゃないことが見えてきたのだ。

若い時は、いろんなものを体験してみたいものだと思う。私もそうだった。高価なレストランにも行ってみたいし、ステキな服もたくさん欲しい。いろんな場所に行って、いろんな体験をしてみたい。そのためにはお金が必要だ。

でも、年を取ってくると、自分がほんとうにしたいことや好きなことがすこしづつ見えてくる。そうすると、どのくらいのお金が必要なのか、どんな暮らしが必要なのか、それからなによりどれだけ時間が必要なのかが見えてくるのだと思う。

その時のわたしにわかったのは、要するにお金ってそれほど必要ないなということ、逆に時間がそろそろ少なくなってきたなということだった。それなら、もっと自分の時間を持てる、歯車じゃない仕事を、自分の好きなペースで一生続けたい。

自分が当時から今もずっと考えていることを書いたのだけれど、やっぱり本の言っていることと、どこか似ているのかもしれない。本を読むとすぐ内容を忘れるので、すでに詳細はよくわからないけど、似ているような気がする。でも50代になって人間が発見(←大げさ)することは、似ているのかもしれない、とも思う。

結局、死に向かって生きることが、本当に生きることなのだなあと、若かったころには絶対に思わなかったことを、ごく自然に、息をするようにいつも思っている。でも、不思議なことに、死を思えば、生きることはすごく自由で怖いことなんてほぼ何にもないんですよね。ほんと。

魂の退社

魂の退社

ところで最近疲れ目がひどく、ブルーライト用のメガネを探しに行ったのですが、度なしじゃなんだか勿体無いので(?)、ブルーライト用リーディンググラス(老眼鏡)を試してみたところ、疲れ目は老眼のせいだということに気がついてしまいました。いつの間にか!とうとう私も老眼です(涙)。老眼鏡、いやリーディンググラス(と最近は言うらしい)すっごい見やすいんだけど!(泣)

ブログを続けるためだけに、グレイテスト・ショーマンについておしゃべりする

こんにちは。

昨日は久々にブログを書いて怖いを克服しようとしたわけですが、朝起きたらすでに「ブログ怖いおばけ」が枕元に居座っていました(笑)。

おばけに負けないために、見た映画のことでもおしゃべりしてみようかなと思います。

先週末は関東に台風が近づいたため、家にこもっておくればせながら「グレイテスト・ショーマン」を見ました。アメリカでサーカスを設立したことで知られる実在の人物、P.T.バーナムをモデルにした映画で、19世紀のNYを舞台に描かれたもの。ちょうどすこし前に読んでいた作品がサーカスの少女たちを題材とした小説だったのもあって、見たくなったのです。

楽しい音楽とダンス、華やかな映像でキャンディコートされつつも、ヒュー・ジャック演じるバーナムが作り上げた「バーナムのアメリカ博物館」は、小人やヒゲ女などの「フリークス」に対する人々の好奇心や恐怖心といったをくすぐるかなりゲスい見世物小屋バーナム自身もかなりインチキくさい臭いがプンプンとしてくる人物です。

フリークスもみんな同じ人間なんだ、誰でも輝ける場所があるんだという理想の「タテマエ」の陰に、社会にも、自分の心の中にも居座り続けるフリークスや異人種に対する偏見という「ホンネ」が居座っている。その偏見に打ち勝つのは容易なことではない。人種問題と分断に今も苦しみ続けるアメリカの悩みを感じました。

とはいえ、映画自体は内容盛りだくさんで、くるくると急展開するストーリー、誰でも共感できそうな、大衆芸術を褒め称える「ザ・娯楽映画」。80年代風の音楽も相まって、まるで昔の大映ドラマ(年がバレる)が、莫大なお金と一流のキャストとハリウッドの素晴らしい技術で蘇ったかのような錯覚を覚えました(笑)。

しかし、昔ながらの古風なサーカスってあまり見かけなくなりましたね。私が子供の頃は木下大サーカスとか、ボリショイ大サーカスを家族で見に行ったものです。どこか物悲しい音楽や、ちょっと疲れたようなゾウ、気だるそうなライオンがなんだか印象に残っています。(ボリショイは調べたら今も公演があるようですね。懐かしい)

というわけで、今日も良い一日を!私はここでダンスを続けます!

ブログが怖いという感覚について

お久しぶりです。

しばらくの間、すっかりブログからもSNSからも遠ざかっていました。その間にも音楽を聴き、ギャラリーや美術館に通い、週に2、3冊の本を読み、時々映画を見ていました。

感じることはいろいろとあるのだけれど、1つには喉の奥で、言葉がつっかえたようになって出てこない、というのに似た感覚がずっとあってなにも書くことができなかったのです。それからもう一つは、なにか怖いような感覚があったのです。

この怖いような感覚はちょっとおなじみでもあります。なにかから遠ざかる時の、怖いから近づけない、という感じ。こんな感覚を抱く人は他にもいるんだろうか?

今までは、ゆっくりとその場から身を引いてしまうのが定番だったんだけれど、わたしはいったいなぜ、こんなふうに感じているんだろう?これをやめたらどうなるんだろう?と、あらためて思ったのです。

たぶん、まとまりのない文章になると思いますが、自分のために書いてみたいと思います

出てこない言葉について

なにかまとまった文章を書くというのは、そこそこ労力のいる仕事です。今の私の仕事は言葉を使う仕事でして、もしかしたら、と考えたのです。

1日に出てくる言葉の量はすでに決まっていて、仕事で言葉をたくさん使ってしまうからブログやSNS用の言葉は尽きてしまっているのかもしれない。

あるいは、仕事で使う言葉がブログで使う言葉と違うので、心がブログからあまりに遠く離れてしまって、うまく戻ってこれないのかもしれません。

今は仕事がひと段落した時期なので、なんとか言葉が紡げています。

わたしは実は案外ワーカホリックなのかもしれません。人生は仕事だと思ってきたところがあります。仕事に関しては、頭の中がオジサンのようになります。

せっかく会社員をやめたので、もっと上手にバランスを取れるといいな、と思います。

怖さについて

実は、この怖さについての方が、ずっとわけがわからないものです。

ブログとSNSに近づくことがなぜ怖いのか。

なんとなく感じるのは、ずっと持ち続けている、自分が発する言葉に対する責任の重さと怖さです。

私はうろ覚えの記憶で間違ったことを言うし、次の日はころりと意見が変わって違うことを考えていたりもする結構いい加減な人間です。

近しい人であれば、あとでとにかく訂正して「えへへ」とベロを出せばいいのだけれど、ブログに書いたりSNSに書いたりすることで、私の言った間違いをほんとうのこととして信じる人がいるかもしれない。その責任に対する恐怖があります。

いや、むしろいつか誰かから「お前は間違っている」とか「バカなやつめ」と責められることに対する恐怖なのかもしれません。

「正しくないかもしれませんが」「お役に立つかどうかわかりませんが」そんな言い訳を枕詞に言葉を重ねていると、寒い夜にゆっくりと雪が降り積もるように、恐怖も積み上がっていきます。そしていつしか降り積もった恐怖が、なにかを言いたい気持ちよりも重くなって、たぶん私は黙り込んでしまうのです。

いくつかの私の過去のバーンアウトの原因のひとつもたぶんコレです。

私は神経質すぎるのでしょうか?他の人はそれほど言葉を真剣に捉えていないのでしょううか?

結局承認欲求?顔を洗って出直します

いやむしろ、無言の静けさに、やさしいひとのうなづきに、「間違っていること言っているな」と思われているのに指摘してもらえないだけなのではないだろうか、という恐怖かもしれません。たぶん、間違ったことを言う恐怖と、それを指摘される恐怖と、指摘してもらえない恐怖、ぜんぶ。

結局これはかなり裏返って面倒くさい状態になっているけれど、承認欲求のひとつなのだろうか?「嫌われる勇気」も読んだはずなんだけど(笑)

まとまらない文章ですが、ちょっとしたリハビリポストを兼ねて、結局自分は承認欲求を持て余しているのかもしれないという痛いことに気づいてしまいました。顔洗ってすっぴんで出直すことにします!

では、今日も、ゴールに向かう道の途中ではなく、今ここでダンスを楽しみましょう(←と自分に言う)!

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

2013年に出版され、長く売れ続けている本書。「自己啓発の源流」という売り文句に、自己啓発本が苦手な私は平積みの本書をえんがちょして避けていましたが、読んでみたら実はとってもまともな心理学の本でした。いかに幸せになるかを目的にすると言うひねりが、西洋哲学が心理学と出会ったような感覚を覚えます(←あんまり勉強していないけど、いちおう哲学科)。

承認欲求がいかにダメかということを延々と説きつつ、目的を追いすぎる人生は人生のすべての瞬間を「道の途中」「ゴールに向かう途中」というあじけない時間に変えてしまうとも。(あああ…)

(私のように)目的志向、結果評価のオジサンたちには耳が痛い本だっただろうなあ…。

「あなたの存在に対する形容詞」ミルチャ・カントル展/「巡りゆく日々」サラ ムーン写真展

少し前に見たもののメモを見つけたので、印象を思い出しながらふたつほど。

「あなたの存在に対する形容詞」ミルチャ・カントル展

英語も"Adjective to your presence "だから、そのままですね。

ドアを開けると、涼やかな音色が波のように広がった。上方から細い管状の鐘が下がっていて、それがドアとつながって音がなるようになっている。それはたしかに自分の動きが生み出した音なのだけれど、仕掛けが隠されていたためか不思議にそのように感じられない。不意打ちの音は、むしろその音を引き起こした張本人に、なにかを語りかけてくるようだ。

でも、よく考えてみれば、私たちは自分が動くことで起こる風、音、気配、匂い、またはほかの人に与える影響といったものに、そもそもひどく無意識なのじゃないだろうか。

わたしたちは人が自分に影響を与えることを強く感じている。誰かが近づいたときに、誰かがいるときに感じるなにかは、言葉や接触によるインタラクションがなかったとしても、そうそう小さいものではないのだ。

誰かがあとから入ってきて、また鐘が揺れた。誰かが私に与える音だ。振り返ると、そのひとと一瞬、目があった。それから私たちはなにもなかったかのように視線をそらし、それぞれインスタレーションを楽しんだ。

軽やかで透明なインスタレーションから、人間ひとりひとりの存在が引き起こす風のような現象について考えていた。

私の存在は、ほかの人にとってどのようにあるのだろう。どんな音を、どんな風を起こしているのだろうか?

今回、東京のあちこちで撮影されたという映像作品では、人々がプラカードを持って無言で都内を行進していく。市場や、議会、寺、よく知った街のあらゆる場所で、彼らは静々と歩き回る。

違和感を感じるのは、たぶん彼らが手に持ったプラカードが透明だからだ。プラカードを持って歩くことは抗議の身振りであるはずではなかっただろうか?でも、訴えが書かれているはずの看板にはなにも書いていないどころか、透明で持ち手の顔が透けて見える。

無言の主張。言葉に出せない、抑圧された主張。または、言葉にならない主張?

私たちは、社会のなかに生まれ育ち社会のなかで生きていくために、そのまま思うまま生きることはできない。社会の中でほかの人とともに生きる以上、社会に「合わせて」生きるのだ。社会というと抽象的な言葉だけれど、要するに肌の外側に常にあって、当たり前のように存在する何かだ。

文化とか、伝統とか、そういうすべての透明な「空気」を読まなければ、社会不適合というレッテルを貼られる。強制された身振り、強制された常識、自分ではないものの中で、でもそれぞれはそれぞれ固有の存在として、固有の思いを抱えて生きている。

共生と個。人間というのはたぶんそういう生き物なのだ。透明なプラカードを抱えたそれぞれの個が集まり、ともにデモ行進を続けながらも、ひとりひとりのプラカードに書かれていない思いはおそらく見事に違う。人間のあり方そっくりだ、と思った。

Sarah Moon

“D’un jour à l’autre ”「巡りゆく日々」サラ ムーン写真展

子供の頃年寄りに聞いた、自分が生まれる前の時代の話は、なんだかファンタジーの世界のようだった。キラキラと輝く想像上の照明の下断髪のモガが微笑み、軍人姿の若者が青空にむかって敬礼している。まったく現実味のないかつてあった世界の話を、子供時代の私は一生懸命聞き入っていた。

触れるようで触ることのできない過去の時間。かつて確実に存在した時代の話に私たちは聞き入り、憧れる。

サラ・ムーンの写真を見て、そんなことを思い出した。

彼女の写真は多くがモノクロームで、昔の写真のようにすこしボケていて、ときに荒々しく現像され汚れているように見える。そうしたテクニカルな「汚れ」によって生み出された擬古調の画面の中で、今生きているはずの女が、フィルムの中で昔の女として現れる。今生きているサーカスの象、今ある工業地帯、今の街、今の全てが過去の幻のように見えてくる。

フィルムを汚すという手の込んだ操作によって、彼女は「今」を、魔法のようにあの幻のような手の届かない過去の世界に変えてしまう。ように見える。

かといって、たぶん彼女は過去を取り扱っているわけではない。彼女が作り出そうとしているイメージは、どれだけ過去のいつかに似ていようと、過去ではなく、手に届かない「幻」なのだ。それは、たぶん彼女の心のなかの世界なのだろう。

私たちは、心の中に不思議なくらいそれぞれ違う色や形の世界を持ち歩いているのだな、と思うことがある。サラの心象風景は昔のフィルムのようなのかもしれない。

私の心の中のイメージは、これとは違う。あなたの心の中のイメージはまた違うのだろうと思う。そう考えると、ひとの数だけイメージがあるのだ。人数分の小さな世界のかけらを、わたしたちは交換しあっているのかもしれない。

そしてそんな、素敵な世界を見たくて私はアートを見、音楽を聴き、本を読むのだろうなあと思う。

今日も素敵な世界と素敵な1日を!

最近、なんだかすごい時代になってきたなあ、と思うこと(とひとりごと)

なぜかオニギリ。オニギリはやっぱり梅干しが好きです。

すごい時代になってきた、と思う

最近すごい時代になってきたなあと思うことが多い。良い意味でも悪い意味でも。

無料の本や漫画、毎日レッスンを受けても月数千円しかかからないオンライン英会話、数百円で記事を書いてくれるライター、信じられないくらい安い、時に無料のプログラムやウェブサイト。

ときに、「こんなお金であなたたちは生きていけるの?」と心配になってしまう。

サービスや商品が安すぎて、どうにもサービスを提供する人が儲かるように見えない。たぶん儲かる人がいるとすればほんの一部、サービスの胴元だけじゃないだろうか?

もちろんそんなことは頭ではわかっていたんだけれど、あらためて「えぐいなあ」と思うことが増えた。正社員という視野狭窄を抜け出した結果、見る位置が変わって、いろんなものが見えるようになってきたのかもしれない。

一見報酬が減らなかったとしても、100円ショップのお菓子の中身がじつはこっそり減っているように、一人一人に要求されることがどんどん増えて高度になっている。たとえば楽器プレゼントで有名なある音楽教室では、受付のカウンセラーはいなくて、先生が営業も事務作業も、もちろんレッスンもすべてをこなすという。

受益者としては、安くて良いサービスを受けることができてラッキーなのかもしれないし、胴元はコストがかからずに「安くて良いサービス(商品)をみなさんにお届けしたい」と目を輝かすのだけれど、現場は大丈夫なんだろうか?

そういう兆しはずっとあったけれども、たぶんこの20年ほどで急激にものの価値だけでなく、人間の労働の価値が信じられないくらい安くなってきている。前インターネット時代に人間がやっていたことを、コンピューターとインターネットサービス、あとロボットで、すごく安く代用できるのだから当たり前といえば当たり前なのだけれど。

それから、東京に住んでいるとレストランも美容室も医者も歯医者も、とにかくたくさんあるなあと思う。そんなにたくさん食べられないし、髪の毛は月に1センチしか伸びないし、そんなに病気にもならないし、歯も決められた数しかない。サービスを提供する側が多すぎる。悪いけど、ちょっと気に入らなかったら、すぐに他に乗り換えればいい。もっと安くて良いところがいくらでもある。競争が厳しすぎるなあと思う。

なんでこんなことになったのだろう?

それで、ふと「なんでこんなことになったのだろう?」と思ったのだ。といっても答えはでないけど。

こんな世の中で、みんながお金を使わないのはむしろ当たり前だ。お金を得ることが昔よりもずっと難しくなってきているのだから。お金をばんばん使う方が気が狂っている。

もしかしたら…お金を中心とした経済自体ががもしかしたら崩れ始めているのかもしれない。そう思うと、ちょっと薄寒い気分になる。じゃあ次はどんな世の中がくるの?どうすりゃいいのよ?どこかに逃げ場所はあるの?

でも、世界中どこに行ってもインターネットがもたらした本質的な世界の変化から逃げることはたぶんできないのだろうなあと思う。

もらえるお金で考えたら、働くことは多くの人にとってかなり馬鹿らしくなりつつある。実際に、この報酬じゃあばかばかしくて、寝てた方がいいなあと思う仕事がある(もちろん断る)。だって私がやらなくても、喜んでやる誰かがいる。だれも困らないのだ。

人生はリスクAとリスクBの比較

なんだか、こうなってくると、お金のことだけ考えれば論理的にベストな結論は「なるべく働かないほうが良い」なんじゃないかとも思えてくる。

でも、すぐに死んで逃げられる世代はいいんだけれど、まだすぐに死ねない世代はどうすればいいんだろう?短絡的に考えると、なるべくお金を使わないようにすること、お金を貯めたらまだ物価の安い国に移住すること?

うーん、それもなんだかつまらない。嫌なことを我慢してやっても、報酬が少なくて報われないのだとしたら、できる人が少ないこと、ほしがる人が少ないものを、報酬が少なくてもしたいことをしたほうが良いのかもしれない。人生は結局リスクAとリスクBの比較なのだから。

そういえば、起業が多い地域というのは、雇用が不安定な場所らしい。普通に働いていても貧困リスクが高いから起業をするのだ。日本に起業家が少ないのは、まだ雇用が比較的安定していて、リスクが低いことを示している。それも、いつまで続くかわからないけれど。

とはいえ、自分が本当に好きで、それで一生を費やして後悔しない、という仕事を探すのも案外大仕事なんだよね。私は恥ずかしながらまだ見つかっていないと思う。死ぬまで探し続けてやっぱり見つからずに死んじゃうのかもしれないなあとも思う。それでも、怪我をするからと遠足に行かないよりは、やっぱり遠足に行きたくなってしまうのだ。

お弁当と水筒は忘れずに

そんな私は、ガリバーのように待ち望んだ故郷にやっと帰ってきても、やっぱりすぐに船の帆をあげたくなってしまうのだ。

まあ、こんなしょうがない自分だから仕方がない。傘とお弁当と水筒、それからおやつ300円分のリスクヘッジを忘れずに、口笛を吹きながら遠足を続けようと思う。

もしかしたら、梅雨空でちょっと気分がダウンしているのかもしれません。そんな日もあるさ。しかしただぐだぐだ書いているだけなのに見出しをつけると、なにか主張があるみたいに見えますね。そうでもありません(笑)。

冷たい雨の日には、なぜかグールドが聴きたくなります。グールドといえばバッハですが、私は彼のベートーヴェンもすごく好き。ということで、あえての『6つのバガテル』。ベートーヴェンが作曲した最後のピアノ曲です。けして録音も多くない曲ですが、グールドは強いこだわりを持って、自分が録音する曲のレパートリーを選んでいました。バッハ以外の作曲家の作品にも素晴らしい録音がたくさんあるんですよねえ。

さすが人気のピアニスト、CDも何回にもわたるリマスター盤や、いろんなベスト企画盤があってすでにわけがわからない状況に(うちのCD棚も)。こちらはベスト盤です。

低気圧に負けずに、良い一日を!

ポーランド映画『裏面』

ここんとこ欧州映画をいろいろ見ました。といっても6、7本程度だけど、なかでいくつか面白かった映画があったので、メモしておきたい。

まず、ボリス・ランコシュ監督の2009年のポーランド映画『裏面』。これがすごく面白かった。

舞台は共産主義体制下、1952年のポーランドの首都ワルシャワ。30歳のサビナは、政府機関で詩の出版に関する仕事をしている。といっても共産主義のことなので、自由な創作ではなく、プロパガンダ作品が求められる不自由な時代だ。

彼女は祖母と母、画家の兄と暮らしていて、祖母と母は年頃の彼女を早く結婚させたくて仕方がないのだけれど、彼女自身はまだまだ恋を夢見る乙女。母が連れてくるお見合いの相手には見向きもしない。

そんなある日、帰宅中のサビナが知らない男たちに絡まれているところにハンサムな男性が現れ彼女を助けてくれた。彼女はその男性と交際を始めるが、彼はほんとうの名前も仕事も明かしてくれない。恋に夢中のサビナが気がつかないうちに、男はすこしづつ本性を表していく。

これ以上は言いたいけど言えない!でも、ブラックなユーモアたっぷりですごく面白かった。

旧体制から共産主義体制に大きな変化を強いられた当時、社会の支配層が力づくで入れ替わって、被支配者層の貧しく粗野な男たちは突然思いもかけない権力を握ってしまった。その一方で、支配者層にいた知識層の男たちは突然力を失い、今まで自分が支配していたはずの男たちにとり入るしかなかった。

社会の構造がくるりと裏返しになり、力を握った男たちが自分の力を持て余し、力を失った男たちがすこしでも力を得ようとおたおたしていたそばで、どちらにしても社会の主流になれない女の強さが際立つ。力から分断されているからこそ、女は、ただシンプルに人生を生き続ける力を失っていない。

画家の兄が見て気絶してしまった(そしてその後の人生、ずっとトラウマとなった)惨状のすぐ横で、サビナの母はいかにものんびりと編み物さえする。彼女はどんなことがあっても、娘を守るということだけを決然と心に決めていて、何があっても恐れない。

まあ、言っちゃうと陳腐かもしれないけれど、女の強さは、戦って支配しようとする男の強さとは違う、たぶん、今日笑って生きて命を繋いでいこうとする種類の強さなのだ。

でも、よく考えてみれば、男だろうと女だろうと人生は実はシンプルなのかもしれない。社会がひっくり返ったって、男も女も、今日もご飯を食べて生きていくのだから。

映画を見たあと、なぜかトランプ大統領の顔がちらついてしまった。たぶん、いつのまにか貧困層になってしまった元中流層の怒りが、トランプみたいな人を大統領にしたのだろうと思う。彼らは、どうして自分たちが貧しくなったのか理解できなくて、ただ怒っている。トランプ大統領の誕生は貧困層が起こしたちょっとした革命みたいなものなのかもしれない。

現代の女たちは、ちいさくひっくり返った社会で、サビナたちのように、男社会の価値観に飲み込まれずに生き伸びることができるんだろうか。でも考えてみれば、今まさに女たちがMeetoo運動の下に結託して、男性的な価値観を否定しようとしていているのかもしれない。そして、じつは旧来の男社会の価値観にうんざりしている男性もたくさんいる。

そういえば、映画の中でサビナの子が、やさしいゲイの男性なのもなにやら意味深にも見えてくる。女性でも、男性でもない、新しい中間的なセクシュアリティと新しい価値観。

良い映画ってそういうものだと思うけれど、この映画もすごく多面的で、いろんな角度から語ることができると思う。まあ、なにも語らなくたっていいんだけど。単純に面白くて笑える気持ちの良い映画なんだから。残念なのは、DVD入手困難で、今のところ見ること自体が難しいこと。もしも見る機会があったらぜひ。すごくおすすめです。

関係ないけど、ポーランドって、いまだに男性が女性にハンド・キス(男性が女性の手の甲にキスをする)をする国として有名なんですが、映画の中の現代のシーンでも、サビナがハンド・キスを受けるシーンがありましたね。いやあ、ポーランド男性、すごいなあ。

・・・

大阪で地震の被害に遭われた方々が、早く安全なもとの生活に戻れますよう。心から、お祈りしています。

ペンギンの憂鬱 アンドレイ・クルコフ 読書メモ

孤独な小説家と、孤独なペンギン

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス) 前から読みたいと思っていたウクライナの作家アンドレイ・クルコフの「ペンギンの憂鬱」を読んだ。すごく面白かったので、ひさびさに読書メモ。

読みだすと同時に、ロシア文学に似たどこか陰鬱な空気感と匂いを感じたのは、原作がロシア語で書かれていたせいかもしれない。

時代と舞台はソ連崩壊後のウクライナ。主人公は首都キエフに住む売れない孤独な短編小説家で、およそ親しい友人も家族もいない。動物園からもらいうけた陰鬱な皇帝ペンギンとともにたったひとりで暮らしている。

ソ連という大きな国から“解放”されたウクライナがこの時代いかに混乱していたかが、動物園を閉鎖して、ペンギンを市民に引き取ってもらわなければならなかったという設定からも伝わってくる。ある意味ソ連に捨てられた孤児であるウクライナと、動物園から追放された孤独なペンギン(ペンギンは群れで暮らす)の姿が二重写しとして描かれている。そしてまた主人公もまたペンギンのように孤独だ。

そんな中で主人公に、生まれて初めて「親しい信頼できる友人」ができ、経済的にも次第にうるおい、さらに女の子と、それから若い女性まで一緒に暮らすようになっていく。外から見たらまるで父と母と娘(とペット)の“幸せ”な家族に見える。でも、そうした幸せのようなものが彼の人生に訪れるのと同時に、死の気配もまた彼の人生を深く侵していく。

この辺の書き方がすごくうまくて、濃くなっていく死の気配に脅かされつつ、その「幸せっぽい状況」は、ほんとうに幸せなのか?なんなのか?みたいなことを、主人公はずっと考え続けているのだ。彼は、この女性にぬくもりを感じているけれど、結局は愛情を感じていないし、女の子にも愛情を感じてはいないことを自覚している。彼が愛着を感じるのは、結局は憂鬱なひとりぼっちのペンギンだけなのだ。

だからこそ、ラストシーンの彼の決断と行動が、なんとも言えずうまくてうなってしまう。彼は最後に自分が何者かを宣言し、そして本来の自分が属すべき場所に、自分の本物の人生に象徴的に戻っていくのだ。彼が本当はどのような者なのかは、ぜひ本書を読んで確かめてみてほしい。

クルコフと村上春樹

ところでクルコフは村上春樹作品が好きだそうで、訳者の沼野恭子さんがあとがきで村上春樹作品と雰囲気が似ていると指摘され、読者はどう感じられるだろうか?と問いかけていらっしゃったので、面白いなあとしばらく考えていました。

主人公が何かから逃げて備蓄付きの家に閉じこもるとか、女の子が出てくるとか、ペンギンみたいな可愛い生き物が出てくるといった舞台装置はたしかになんとなく似ているところがあるんだけれど、主人公のあり方が全然違うというか、逆なんですよね。

村上春樹の作品はフロイト的というかユング的というか、集合的無意識の世界、夢の世界に深く降りていき、目覚めた時に現実の人と世界も変化しているというようなところがあると思うのです。主人公が受動的と言われるのもよくわかる。夢の中の人間って受動的ですから。

それに比べてこの作品はやはりとても政治的だし、非常に意識的にしっかりと構成されたコンセプトがあり、主人公は受動的な状況に追い込まれるけれども、最終的には能動的に自分の人生を選び取っていくように、私には見えるのです。

感覚的に言っちゃうと、ハルキは東洋的無意識的で、クルコフはやっぱり西洋的(非東洋的)意識的みたいなことになるのかもしれません。わかりませんけど。

日本語世界と無意識的世界

そのへんって日本の現代美術と海外の現代美術に感じる差にも、どこかとても似ているんですよね。コンセプトがはっきり意識され、語られ、主張されている海外作家の作品と、コンセプトがなかったり、あっても作家自身がコンセプトを探し中みたいに見えたり、どこか生煮え感覚な日本の作家たち。

西洋でもフロイトが登場した時期に無意識的世界を探る作品が流行ったけれど、結局は今は廃れてしまった気がするのです。それは西洋文化と無意識の相性の悪さということがあるような気がします。

そして日本の作家がコンセプトをしっかりと作るのが苦手なのは、逆に日本文化がもともとなにもしなくても無意識的なので、意識的に構築していく「コンセプト」みたいなアプローチが逆に苦手なんじゃないかという気がするのです。ある意味、それが村上春樹とも共通した日本人の(Zen的な)精神世界なのかもしれません。

最近はコンセプトがしっかりした日本人作家もかなりでてきたけど、海外で活動されているか、活動したことがある人が多いと思う。突き詰めていくと、結局日本語のつくりみたいなものとも関係があるんじゃないかという気がしてならないんですよね。このへんを考え始めるときりがないですが。日本語世界をいったん離れないとコンセプトというものは難しいのかもしれないのかもしれない、なんて思ったりします。まあ、東西どっちが良いとか優れてるってわけではないですけど。

とにかくまさにページターナーでした。あっという間に読んでしまった。

ところで、ここ1ヶ月に見たものや聞いたもの、ぜんぶアップデートするのは、諦めることにしました。結局はブログは日誌じゃあないし、今書いておきたいことを書けばいいんですよね。と、考えを変えたのも、ペンギンがすごく面白くてなにか言いたくなったからだと思います。

もともとロシア文学(および寒冷地文学、笑)好きなのですが、最近は自分の中で、東欧がちょいブームです。ポーランドの写真もすごく良い作家が多いし、最近見たちょっと前のポーランド映画『裏面』も最高に面白かった。って、ポーランドばっかりでしたね、笑(地理的にはポーランドはドイツの隣だけど、政治的には旧共産圏なので一応東欧。この辺っていつもどっちか迷います)

ところで、関係ないけどボルシチってもともとウクライナ料理らしいですね。

では、今日も梅雨空に負けず、良い1日を。

レミ・ジュニエ・ラフォルジュルネ・オ・ジャポン2018など

またしてもすっかりご無沙汰して、はてなのURLを忘れそうになる始末。なにかに夢中になると、いろんなことが器用にできないたちなのです。いいかげん、連休からもう一ヶ月で、忘れそう。

しばらくビジュアルアートのポストが続いたので、連休前に聞いたレミ・ジュニエと、GW恒例のラフォルジュルネ・オ・ジャポン2018の備忘録。

レミ・ジュニエ

彼はラフォルジュルネにも出ていたけれど、ラフォルジュルネを開催する国際フォーラムはあまり音が良いとは言えないので、文化会館の小ホールのリサイタルのみをチョイス。あの小ホールの音は独特で、強く聞こえるというか印象的でかなり好き。特に印象的だったのはペトルーシュカ。生き生きとしたバレエ・リュスの名曲だが、舞台で踊るペトルーシュカが目に浮かぶ熱演だった。フランスものは嫌いだったと本人は言っているようだけど、ラヴェルも美しかった。フランスものやロシアものをもっと聞いてみたい。まだ若い演奏家なので、がんがん攻めてほしいなあ。バッハやベートーベン(しかも31番)はもっと年取ってからにとっておいたほうが良いのでは?

曲目 ●J.S.バッハブゾーニ編):シャコンヌ  ●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 op.110 ●ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」からの3楽章 ●ラヴェル:ラ・ヴァルス

ラフォルジュルネ・オ・ジャポン 2018

例年適当に面白そうな公演があったらチケットをとるのだけど、今年のラフォルジュルネは、気がついたら鍵盤ばかり。今年からは都内も二箇所で開催するようになり、日本各地にも増えて、どんどん大きなイベントになっているけれど、初期の頃の「めったに聞けないへんてこな曲が聴ける」という面白さのほうもなくなってきたかな。卒業する演奏家パフォーマーも増えてきたし、そろそろ私も聴衆卒業が近いかも。昔の勅使河原さんのダンスとクラシックの共演とか、ピエール=ロラン・エマールのメシアンみたいなとんがった公演が懐かしい。

ルーカス・ゲニューシャス

なかで、数年前感動的なラフマニノフのピアコンを聞かせてくれたルーカス・ゲニューシャスによるヒンデミット《ルードゥス・トナリス》は、彼の勝負曲(?)だけあって、非常に生き生きとしたエネルギッシュな演奏でおもしろかった。アンコールのデシャトニコフも、ジャズ的な熱気みなぎる演奏で、会場も興奮。

ヒンデミット《ルードゥス・トナリス》1〜5

アンヌ・ケフェレック

今年のアンヌ・ケフェレックが弾いたのは、お得意のドメニコ・スカルラッティスカルラッティは、30曲のソナタ集の出版に際して、「深刻な楽想を期待するよりも〜中略〜邪心のない技術的な工夫をしてください。私は皆さんを楽しませることができると信じています*」と書いたという。何も難しいことを考えず、ただ素直に弾けば美しい曲なのだという意味ではないかと私は思う。彼女の透明な音色、子供のように純粋なスカルラッティを聞くたびに、その言葉を思い出す。

ケフェレックが弾く、スカルラッティソナタK.27。

ラルス・フォークト

チケットを取った時に一番楽しみにしていたのは、ラルス・フォークトのピアノ。今回は弾き振りだったが、あの巨大な会場では、彼の繊細で美しいピアノがイマイチ聞こえなくてひたすら残念。指揮がなかなか良かったのはうれしい予想外だけれども。

ショパンノクターン、この人のショパンも美しいんですよね。

ほかにもいろいろ聞いたのだけれど、このへんで。

ショパンコンクールおよびチャイコフスキーコンクールで両方2位を取った若手ピアニストルーカス・ゲニューシャスが、デシャトニコフほかを弾いたアルバム。

2015年、ケフェレックは、なんと40年ぶりにスカルラッティを再録音。宝石箱のようにスカルラッティの美しい数々の曲を楽しめるアルバム。

ラルス・フォークトはどのアルバムも美しいんだけれども、子供のためと思っていた曲たちに秘められた繊細さや美しさを教えてくれた、このアルバムをチョイス。子供に戻って弾いてみたくなること請け合い。いかにもいかついドイツ人顔だけど、心は優しく繊細なのだろうなあ。

*スカルラッティ ソナタ集1 中山靖子編 音楽之友社より引用

*画像は、ぴあ特設サイトから引用。

21世紀の美術 タグチ・アートコレクション展

岡村さんの個展の隣の会場でタグチ・アートコレクション展が開催されていた。タグチ・アートコレクションはミスミの経営者であった田口弘氏の400点を超えるコレクション。そのうち今世紀に制作された作品70点が展示されていた。

コレクター展というのは、集めた人の個性が見えてなんだか面白いなあと思う。記憶に新しいところでは、精神科医高橋龍太郎さんのコレクション展はいかにも精神科医らしく人間の心に対する興味を感じさせたし、空間デザインの片山正通さんのコレクションは個性的でセンスがよく、それぞれ「らしい」なあと思わせるところがあった。

会場に入ると左手にジュリアン・オピーの大きな作品、正面に奈良美智が2点。村上隆の作品も目に入ってくる。内外の有名作家、新進作家の作品がいろいろで楽しめる。

テーマは「芸術とはなにか」ということで、フェルメールの絵画を絵葉書で再構築したり、絵画の裏側を細密に再現して見せたヴィック・ムニーズの≪デルフトの眺望≫や、青山悟さんの刺繍作品の美術の分類と楽しい批評の言葉などはいかにもテーマに沿ったもの。

紹介しだすとキリがないけれど、個人的にここ数年お気に入りの加藤泉さんのトーテムのような彫刻。杉本博司さんの海峡シリーズも一点。杉戸洋さんの可愛い油彩も一点。

ほかにも、セバスチャン・ディアス・モラレスの≪バサヘス≫は、ひとつのドアから出てきて歩いて行きもう一つのドアを開ける、という短いシークエンスを大量につないで巨大な仮想迷路空間を作り上げた作品。逆説的に映像の嘘の構造、映画やドラマの嘘の構造を暴いていたように見えて、個人的に興味深かった。

ほかにもあれもこれもそれも、あちこちで見たばかりの記憶のある作品もいろいろ(←雑)で、有名どころから、採りたて新鮮な今の作品まで見ることができる。

今更気がついたけど、いつのまにか日本人コレクター展が増えているような気が?まあベネッセとか森とか、古いところだと西武やブリジストン、もっと昔を掘り返せば西洋美術館の元になった松方コレクションなんかももともとプライベートだけど。ここで思ったのは、もっと自由で新しい新興コレクターのコレクション展。増えてません?

コレクション展を見るといつも、わたしだったら、どんな作家のどんな作品を「収集」するかなあと考えてしまう。予算が小さければ自分が楽しむための小さな作品を買うだろうけれど、巨額の予算があったら、自分の死後、作品を社会に還元するというか、残すことを考えるだろう。そういえば、数年前に見た台湾のヤゲオ財団のコレクション展(凄かった…)では、作品に値札!!がついていたっけ。

とにかく、巨額予算コレクションを作るとしたら、たぶん自分の好みよりも、何を残し、何を次の世代に手渡すべきか、ひとつの時代を表す作品はなんなのかということを考えるだろうと思う。その場合、コレクター(私・笑)の個性は薄まるだろうか、またはますます濃く滲み出ちゃうだろうか?(関係ないけど、日本の美術館にもっとクレーがほしい)

なにはともあれ今回の企画展、コレクターの個性をあまり感じない手触りだったのはテーマのせいだったのか、それともコレクターの意図もしくは個性だったのか?などと、つらつらと考えながら見終えました。

平塚市美術館にて、会期は6月17日まで。

GW旅行シリーズ、まだ続きます〜。

【出品作家】 青山悟、淺井裕介、マシュー・バーニー、ヨナス・ブルゲルト、ホセ・ダヴィラ、セバスチャン・ディアズ・モラレス、ナタリー・ユールベリ&ハンス・ベリ、トレーシー・エミン、マーク・フラッド、モリーン・ギャレース、五木田智央、ジョアン・グスマン&ペドロ・パイヴァ、キース・ヘリング、セクンディノ・ヘルナンデス、カンディダ・ヘファー、今津景、ハイヴィ・カーラマン、金氏徹平加藤泉川俣正小泉明郎、丸山直文、ライアン・マッギンレー、ミヤギフトシ、ジョナサン・モンク、リチャード・モス、ヴィック・ムニーズ、村上隆、オスカー・ムリーリョ、奈良美智、西村有、大竹伸朗、オスカール大岩、ヨーコ・オノ、ジュリアン・オピー、ジョルジュ・オズボルト、ロブ・プリット、ゲド・クイン、マリナ・レインガンツ、クリスチャン・ローザ、ウィレム・サスナル、さわひらき澤田知子杉本博司杉戸洋、鈴木ヒラク、照屋勇賢、トゥークラル&タグラ、マリオ・ガルシア・トレス、アンディ・ウォーホル、リネット・ヤドム・ボアキエ(特設サイトより転載)

画像参照:マシュー・バーニー《Ms. グッドヤー》1995 年 © Matthew Barney 平塚市美術館