美をもとめる魂ー「単色のリズム 韓国の抽象」展に行ってきました

森の中で、川べりで、星空の下で、ひとり深く呼吸をし、耳をすますとき、
美しい自然の大きさのなかで、じぶんが小さな存在だと感じます。
そして同時に、自然の美の前で、ことばを失います。

「韓国の抽象」展の作品を見ていて、
まるで、大自然のなかに身を置いて、呼吸しているように感じるのは、
作品に使われている、限られた、でも豊かな色調のせいかも。

ー茶色からクリーム色への豊かなグラデーション、灰色と黒、緑、深い青、白ー

それは、木の色、土の色、岩の色、影の色、木の葉の色、空と海の色、そして光の白色。

動物と人間をとりまく、あの静かで物言わない大きな自然の豊かな色調そのものなのです。

だいぶ前に、ソウルで、古民家に泊まったことがあります。
井戸のある中庭に面した素朴な木の部屋に、障子ごしの光が差し込むと、
部屋はあたたかいベージュ色のグラデーションで満たされました。
あのときの色を思い出しました。

タブローの上で、絵の具が「にじみ」ます。

人間がコントロールし得ない、偶然の、自然の作り出すかたちと色の美しさ。

人間中心の西洋の油絵にはない、自然中心の東洋的な美を感じます。

わたしたち東洋人は、つねに自然の中に深い美と真実があることを知っていたのではないかと思います。

キャンバスをまるごとまるでひとつの物質のように扱っている作品。表面ではなく。
でもそれは、彫塑をつくる彫刻家の手というよりは、
なぜか東洋の素朴な土の陶器(茶器や壺のような)をつくる手のように見えました。

李禹煥が好きだったこともあり、
韓国アートには以前から注目していました。
時折、韓国の現代アートの企画展があると、足を運び
独特の繊細で、静謐なうつくしい作品たちから聞こえる、しずかな囁き声に耳を澄ましてきました。

そうした経験のせいか、常々韓国の人は
芸術に「美」を求めるひとびとなのではないかと思ってきました。

芸術を何だと考えるか、芸術を通してなにを創り出すのかというのは、
文化圏によってだいぶ違うなあといつも思います。
西ヨーロッパだけを比べても、それぞれの文化が地理的にとても近い位置にあり、
密接に影響を与え合っているにもかかわらず、はっきりと区別できるほどの違いがあります。
国境を超えるたびに、まったく違うことば、ヴァイヴ、食べ物、
そして異なる芸術の世界が広がるのは、驚くべきことです。
だから旅に出たくなるのです。
テレビだけで世界を見ることはできても、肌で、体で感じることはできません。

芸術を創造するとき、なにを求めるのか。
それは、その民族の魂のかたちに近いのではないかと思うんです。

ある民族は「うつくしい」ものを、ある民族は「神様に近づく」ことを
また「きもちがよい」とか「たのしい」ことを求める民族もいる。
「美術」と言われるけれども、実は、美術はひとつではないし、美でもないのです。
とてもローカルな営みなのです。

近年、韓国が芸術の世界だけでなく、メイクやファッション、アイドル、美容整形(?!)に至るまで、
俄然、世界の注目を集めだしたのは、けして偶然のことではないのかもしれません。
わたしには、「美をもとめる魂」を韓国のひとびとは、生まれついて持っているように見えるのです。 (若干暴走気味だけど…。)