子供がピーマンを嫌うことと、わたしが仕事を断ることの共通点


お昼に担々麺に入れた唐辛子をまるごと一本食べてしまいました。むしゃむしゃ噛んでから気がついて出したのですが、遅かった。口の中がまさに火事。よく夫がパスタ入れた唐辛子を食べちゃうので、「なんで食べる前にちゃんと見ないの?」と言っていたのですが。夫には秘密です。水飲みすぎてお腹いっぱい。

子供がピーマンを嫌いなのは自然なこと

子供の頃は甘いものが好きで、ピーマンがとても嫌いだった。

大人になって、甘いものはあまり好きではなくなり、ピーマンってなかなか苦み走って美味しいじゃないか、と思うようになった。子供の時はあの苦味が嫌いだったのに。

子供と大人の味覚の好みが違うのには、それなりの理由があるらしい。子供はたくさんのエネルギーを必要とするので甘いものを求め、毒の味覚を代表する苦味を避けるとか。それに、大人のドロドロした血液をサラサラにしてくれるピーマンは、子供のサラサラ血液には必要がないのだという意見もある。

ほうれん草に関しても同じようなことが言えるらしい。ほうれん草のアクのシュウ酸は、カルシウムの吸収を阻害するから、成長期の子供は、ほうれん草を本能的に嫌うのだという。

私たちの体や感情は、意識よりもたくさんのことを知っているのかもしれない、と思う。理由が見当たらないけれど嫌な時、「生理的に嫌」というけれど、その体感にはたぶん頭ではわからなくても、それなりの理由があるのだ。

なぜ、嫌な仕事を受けそうになったのか

前置きが長くなったが、受けるか迷っていた仕事を断ろうと決心した。自分を曲げる感じがする。吐き気までしてくる。おえっ。

しばらく考えていたのだけれど、なぜその仕事を受けそうになったのか、それなのになんで吐くほど嫌になったのか、なんとなくわかってきたような気がしたので、忘れないように書かせてください。

会社を辞めてから、時々人に会うとみんながキラキラして見えて焦ることがある。組織に属していれば、会社名や肩書きで、周りも自分もどういう人間なのかなんとなく納得するけれど、組織に属していないと、いちいち自分がどういう人間なのか、何をしていて、何をしたいのかを説明しなくてはいけない、ような気がする。

組織に属していると思考停止になっているだけなのだけれど、毎回「何者?」を突きつけられるのも、すこし疲れる。承認欲求がちくちく疼くのである。自分が何者か、疑われているような居心地の悪さ。突きつけてるのも、疑っているのもたぶん自分自身だ。

わたしの承認欲求は、着るものや持ち物には向かわないけれど、仕事に向かってしまう傾向があるみたいなのだ。冷静に考えれば、すごくわかりやすく道を踏み外してきたのに、やっとわかったような気がする。自分のことはわかりにくい。ある意味良かったかもしれない。

承認欲求という煩悩おばけに餌をあげても、ただ肥大化するばかりで、本当に満たされることはない。ラットレースはダメ、絶対。(自分に)

善ではないことはしない

なぜ嫌だったのかといえば、すごく綺麗に言っちゃえば、自分の倫理基準に引っかかったのだと思う。ウェブサイトはほとんどの場合、まあ広告だし、広告となれば商品を「売る」ということが究極の目的であることが多い。だからこそ、一種の倫理基準のようなものが必須だと常々感じている。

コンテンツマーケティングが花形になるにつれ、かつて夢見た平等なインターネットの理想郷とは程遠い、質の低いスカスカなまとめ記事ばかりがネットに溢れているのは、なんだかとても虚しい。

インターネットは最初、すべての人が平等な、きらきらかがやく理想郷だったのです。そういう面もあるけど、そうじゃない面もある。気をつけていないといけない。気がついたら巻き込まれていないように。

ピーマンはピーマンらしく

もしピーマンが空気を読んで、すごく苦労してみんなに愛されたくて甘くなっても、大人には「ピーマンらしい味がしない。苦味がなくては美味しくない」と言われ、子供には「やっぱり苦い、しょせんピーマン」と言われてしまうんじゃないだろうか。

すこし苦い、わけのわからない野菜になっても、ピーマンは幸せなんかじゃないはずだ。

りんごに負けてもいいじゃないか。ピーマンはピーマンらしく、わたしもわたしらしくまっすぐこつこつやろう。と思いを新たにした所存です。