不在と実在のまあいと、時間である私 ≪DOMANI・明日展≫ に行ってきました(2018)

ドマーニといっても、同名の女性誌じゃありません。若い作家の作品を集めたDOMANI展に、今年も行ってきたので、一部だけだけど写真とともに勝手な感想メモ。

中谷ミチコ

≪あの山にカラスがいる≫(部分) 中谷ミチコ

去年のヨコトリの作品も印象的だった中谷ミチコさんの彫刻作品。

彼女の作品は、絵画ではなく彫刻である。まず立体を作り、石膏で型を取って逆レリーフ状態にしたところに彩色をほどこし、透明樹脂を流し込むんだったと思う。間違っていたらすみません。この平らな白壁のような画面が石膏なのか。見ていると、画面の内側に吸い込まれそう。凸凹逆転した画面が感覚にびしびしくる。

(部分)

カラスが飛んでいく。んだけど、普通のカラスのように膨らみながらではなく、凹みながら飛んでいくのだ。世界が凹んで、逆転している。くぼみは不在、のはずだったのに。不在と実在が反転している。

石膏の表面の向こうにあるのは、反転したもう一つの世界だ。手を伸ばして、その世界に触れたいと思うけれど、触れることはできないだろう。透明な樹脂がその「すきま」を塞いでいるから。でもその透明な樹脂こそが、その世界の要だ。樹脂がなければvoidだ。というか、もう一つの世界は生まれない。もどかしい矛盾。気持ち悪い、じゃなくて気持ち良い、というのともちょっと違う。見ていてなんともクセになる。

≪カラスの女の子≫ (部分) 中谷ミチコ

反転した世界から、凹んだ女の子が凹んだ眼差しで見つめてくる。彼女はカラスを抱いている。または彼女はカラスなのだろうか?

これは本当に実物を見ないと、写真では魅力がわからない作品、といいつつ写真を載せてしまう。すごく好きです。

mamoru

≪あり得た(る)かもしれないその歴史を聴き取ろうとし続けるある種の長い旅路、特に日本人やオランダ人その他もろもろに関して≫ mamoru

mamoruさんは、もともと音楽を学ばれていて、サウンドアーティストということだ。数年前、北海道の作品をみたことがある。

黒いスクリーンの向こうで、彼は言う。

“This is my voice.”
わたしの声である。

作家自身が自分の声で語り、歌っていることを宣言する言葉だ。誰か他の人にに語らせる作家も多い。自分の声で語ることが、また「語り」それ自体が重要だということも、この声はおそらく宣言している。

耳をすます。

スクリーンには白い文字が浮かぶ。語られる言葉とまったく同じではない。声は、バタヴィアについて、オランダ人たちについて、昔の日本人について独り言のように語り、時に歌う。リズムと音の高低がコントロールされたパフォーマンス。あえて言えば芸能のカタリだ。演劇の中で、見るものを異世界に誘ってきた語りであり、古代、焚き火のそばで、人々を物語の世界に誘った語りの系譜にある声。

それならば、語り手が誘う世界に、素直に入って行こう。

複数のスクリーンに映し出されるイメージと、音や声が響きあう。踊る女性、絡まるふたつの手。語りも音楽も舞踊も、古代から続く身体性の芸術だ。作家の喉から出される声を聞きながら、手が裸だと気がつく。裸の肌、絡まり合う裸の手。それはひとりの手なのか、ふたりの手なのか。

会場を奥に進んでいくと、現代のインドネシアの映像が現れる。今この時代に存在する日常に、オランダ語が書かれた壁がある。たぶん、過去に書かれたもの。

今が実在なら、過去は不在だ。身体が不透明の存在なら、過去は透明な非存在だ。では歴史とはなんだろう。

跡だけを残してどこかに消えてしまった過去は、かつて生きて、今は消えたたくさんの身体の不在でもある、と思う。彼らが実在した証拠は、残された「しるし」に見ることができる。オランダ語の壁だ。

歴史を探し求めるのは、しるしを探し求めることだ。不在の身体を探し求めること。不在の誰かを探し求めること。印を残した過去の人々と、その人々を探し求める人々が交差する。違う時代に生きたオランダ人と日本人の幻が徘徊するインドネシアに、彼らがのこした「しるし」を捜し求める。その人自身も、しるしを探しながら、しるしを残し、いつか去るだろう。

いつかあった体、いつかあった命と、いまの体、いまの舞踏、今そのものについて考える。いや、もともとすべてが、今ここにあるのかもしれないとさえ思えてくる。わたしのなかに、過去のオランダ人たち、過去の日本人たちが、今日「不在」として存在している。

時間とはなんだろう。私たちは、時間の地層の一番上にいるのではなく、時間は地層のようなものでもなく、ただ一人前の命が時間が、人数分存在しているだけだとしたらどうだろう。すくなくとも、わたしはわたしの時間を生きているだけだと思う。他の人の時間は知らない。

私は時間である、と思う。

わたしが時間である、とそれぞれが思っても構わないのではないか、とも思う。

盛圭太

盛圭太さんのドローウィングは、糸でできている。糸でできているので、ドローイングというよりは、一見刺繍に見えてしまう。針でさしているのかと思ったら、紙にグルーガンで糸を止めていくらしい。ハンドメイドや伝統的な手仕事を連想させられることを防いでいる。

無数の糸は抽象的な図像を描く。あえて言うなら未来的で、SF映画チックな、一種のパターンのようなもの。

それでも、糸は重みを持ち、微妙に弛み、線でありながら物である。糸の張力が生み出す直線は、完璧な直線ではない。抽象的な線を、強固に具体的なモノであり続ける糸が、抽象性に反発し続けるところに、独特の魅力を感じた。

同時に、無数の静かな糸は、見るものに独特の、個人的な感情も呼び起こす。手触りのようなもの、糸というマテリアルの持つなにか。絵の具とは違って、手に近い素材だからだろうか。

あやとりの軌跡を見ていると、子供の手遊びが、線と形への原初的な興味というか、希求みたいなものだったということに気がつく。あやとりって、お絵かきだったのね。または「ドローイング」とも言えるか。

このビデオはドローイングと身体性を結びつける。それらはもともと密接な関係があるものだけれど、そこに手がないから、忘れてしまっているのだ。手の軌跡としての糸の線。複数の手が糸をやり取りするとき、彼らは体の動きを、軌跡をやりとりしている。

まとめじゃない、感じたこと

だいたいいいな、と思う作品は自分の心のなかで気になっていることとリンクしていることが多い。不在と実在とか、歴史と時間とか、身体性は、人間としてそのうち死んでいく人間の命の運命みたいなものを思い起こさせる。

なんとなく、年々強く感じるようになってきたことだけれど、私は、油絵と言う素材を内部化できないかもしれない。それは常に外部にあって、肌より中に入っていかないような気がする。特に日本人が描く西洋的な油絵の作品は、深いところでしっくりしないことが多い。油絵というマテリアルの問題というよりは、むしろ使い方の問題かもしれないけれど。

言いたいこと、というか感じたことを言葉にするのはとても難しい。読み返すと、抽象的な言葉が多い。書きながら考えているので、というのは言い訳で、文章力の問題は自覚しています。書く以上は人が読んでもわかるようにはしたいと思うのですが。努力します。日比谷の方ばまだ行ってないので、行ってもし何かあったら続きを書くかもしれません。新しい記事にするかな。

会場は撮影可能です。あまり良い写真ではないので、ご自分の目でぜひ。会期は、新国立美術館で3/4まで。なお、関係者のご要望があれば画像は変更ないし削除します。なんだか画質および部分写真が多いので、ちょっと心苦しい。なら全体写真にしろって話ですが、中谷さんの作品は近くから見せたくなってしまう。コメント欄または、問い合わせフォームよりご連絡ください。別にそれ以外でも、ご意見もなんでもどうぞ。

なお、ここに書かなかった方が良くなかったということではありません。どの作品も面白いのですが、人には誰しも好みがあり、癖があり、そして限界があるのです。かなり好きでも書けない作品もあります。

最後に、この正体不明のドマーニ展ですが、実のところは文化庁の海外研修制度の成果展です。初めはチケットをいただいて行き始めたのだけれど、なんとなく毎年楽しみにしている。作家が会場にいることも多くて、個展感覚なのも楽しい。安くて空いているので、若くて新しいものを見たい方には良いと思います。