日本の新進作家vol.14 無垢と経験の写真 展 感想メモ#1 義足のアーティストのセルフポートレートを見て考えた、装うことの意味

写真シリーズ、小出しですが続いています。国内の新進作家たちの作品をまとめた企画展のなかから、今日は片山真理さんのセルフポートレートについて感想メモ。

服を着ること

「服を着る」というのは、どういうことなんだろうか。人間は服を着る。寒くても暑くても、裸の体に、なにかを身につけようとする。小さな子供でも、自分がどんな服を着たいのか、または着たくないのか知っているし、好きな服を着たときにはとても嬉しそうにする。自分が気に入った服を着ていると、気持ちがいい、楽しいと思う。特に女性はそうだけど、男性だってそうじゃないだろうか?「着るものなんかなんでもいい」と言いつつ、自分が気に入っていない服は結局着ずにタンスの肥やしになっていたりするように見える。

義足のアーティスト

数年前に彼女の義足をテーマにした展示を初めて見た時、セルフポートレートの中で、彼女はステキな義足を身につけ、まるで綺麗な人形のように見えた(写真)。義足は彼女の機能を補う道具であるとともに、オリジナルで素敵な装身具だった。

それで、「装うということ」についてあらためて考えたのだ。わたしたちは、自分の「身体」に、身体以外の外部のものを取り付けて装っている。そんなことをするのは人間だけだ。

今回、数年前に見た石内都さんが撮影したフリーダ・カーロの義足のことも思い出した。ヒールのついた真っ赤なブーツ。装飾がされていて、とても素敵だった。フリーダの祈りのように見えた。


石内さんがフリーダの遺品を撮影するなかに赤いブーツが出てきます

「装う」ことの意味

「装うこと」とは、自分を探し、自分を取り戻す手段なのかもしれない。人間がただの身体=肉ではなく、肉を持った精神であると主張するために、わたしたちは肉である体に衣をまとう。それは文字通り、一番肌に近い表現だ。初めて会った人をどんなファッションをしているのか、どんな髪型をしているのかで判断するのも、身につけるものにその人が表れていると知っているからじゃないだろうか。

義足にハイヒールを履いた片山さんの、挑むようなまっすぐな視線が印象的だった。もう人形のようには、まったく見えなかった。

◼️フリーダ 愛と痛み

石内都さんが、フリーダ・カーロの「青の家」でフリーダの遺品を、丁寧に撮影した感動的な作品集。プロジェクトは当時、海外でもかなり大きな話題になりました。ほんとうにうつくしい写真の数々。

◼️フリーダ [DVD]

なんとなく、作品の方向性があまりに違うので前後半に分けたくなったので#1です。

前からずっと思っていることなのだけれど、セルフポートレートは圧倒的に女性のものですね。女は見られる存在だからかと思っていたけれど、女は自分を見る存在なのかもしれない。なぜだろう。女は、美しいにしろ、醜いにしろ、自分を見、ほかの女を見る。そして、男性も女を見る。女とはなんだろうか。

たくさんの人に会ったり話したりすると、楽しくてもとても疲れる。どこかぴりぴりとした自分を持ち帰ってしまうみたい。ブログを書いていると、すごく落ち着いてくることに気がつきました。素の自分に戻れるのかもしれない。ほんとうは人といてもぴりぴりしないのが目標なのですが、やはりどこか緊張してしまいます。わたし、なんだかハリネズミみたいですね。