ヴァジコ・チャッキアーニ・折笠良 ー ジョークとアートと人間の精神/自分の意志を生きる

英国では羊も行列が好き?

行列という娯楽?

ブリティッシュジョークが結構好きです。彼らのユーモアのセンスはかなりドライですが、自分を笑う余裕とセンスがあって、感心してしまうことがある。定番だと、「俺たち強盗の才能があるから。大英博物館を見ろよ」みたいな。

今朝も、たまたま見たYoutubeにちょっと吹き出してしまいました。街角の普通の英国人に、英国人はどういう人たちなのかを聞くインタビューで、ダークスーツの30代くらいの男性がこんなことを言っていました。

We are very very good at queueing. We take it very seriously queueing as a pastime.
「英国人は行列するのが非常に上手いですね。我々は、(列に並ぶことを)娯楽として非常に真剣に捉えています」

娯楽としてというのがおかしい。イギリス英語で列はqueue. queueingはアメリカ英語だとwaiting in line とするところですね。この方は、また「最近英国が料理がうまいことになっているけど、そんなことはない」と否定されていた。ジェイミーオリバーのおかげでイメージが変わったと言っても、実際は…というところでしょうか。日本で英国はメシマズで有名なのを知っているだろうか。

英国での列の意味は、日本とはちょっと違うかもしれない。東京なら列の先はライブやディズニーランド、話題のレストランや、スイーツショップだが、英国ではなにか手続きをするとかいう時に、昔から長い列ができがち。日本でも昔はそういうことがあったけど、あまりなくなったような気がします。

ここ30年で、日本ではいろんなことが改善されたけれど、欧州では30年前とあまり変化がなくて、そのままなこともとても多い。列で並ぶことも、その一つかもしれません。とはいえ昔よりはよくなっているような気はするので、一種の定番の文句でもあると思いますが。英国人は、嫌味と文句とジョークの区別が曖昧なので、ぼんやりしているとすぐからかわれてしまう。

ジョークという知性・抵抗としてのジョー

そもそも列が長いのは英国だけじゃないと思うのですが、英国人は不平をみつけるとジョークにしたいタチなのだと思います。言いにくいことをジョークという形にして笑い合う。本当に娯楽と捉えているわけではないでしょうが、列で待つことが嫌いな私からすると、静かに行列している欧州人の様子は、忍耐強いなあと、感心してしまうことがあります。係員も、のんびりのんびり、急がないし。とはいえ、震災の時の駅での日本人の静けさは一部メディアで驚嘆されたので、それぞれの国の人にいろいろと考えがあるのでしょう。

日本人も、なにか定番のナショナルジョークがあるといいのに。ww2でのアレコレ、特に従軍慰安婦あたりを自分で笑えると知性のアピールにもなって良いと思うのですが、日本人のキャラにはきついかもしれませんね。ネトウヨさんたちに怒られそう。でも、だれか日本語でいいので面白いジョークを考えてくれないでしょうか。

いろいろ見たものがたまっているのですが、忘れないうちにすこし小出しにします。

ヴァジコ・チャッキアーニ "Moment in and out of time"

ヴァジコ・チャッキアーニは、ジョージア(グルジア)の若手作家。ベネツィアビエンナーレジョージア代表として、室内に雨の降る小屋のインスタレーションで注目を集めたひとらしい。

”Living Dog Among Dead Lions” Vajiko Chachkhiani

インスタレーションのタイトルは、旧約聖書コヘレトの言葉「すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せる獅子に勝るからである」からの引用。ジョージアの田舎から直接運ばれてきたという小屋の中には、雨が降りしきっている。

Winter which was not there

今回の展示のメインはショートフィルム≪ Winter which was not there ≫。

ヴァジコ・チャッキアーニ が Future Generation Art Prizeの受賞を受け、 作品について語っています

労働者風の男性が、海から引き揚げた石像をトラックで牽引するだけのフィルムだが、その石像は旧ソ連圏であるジョージアにかつて置かれていた英雄の像なのだろうなとすぐわかる。彼の人生のある時期まで、その像の人物は公には英雄だった。その像がいつ海に沈んだのかはわからない。また、男性がなぜ今になって、海に沈んで忘れられていた像をわざわざ引き揚げたのかも、語られることはない。

彼は忘れ去られた英雄を、わざわざ水面下から、または記憶の中から引き揚げて、トヨタのトラックにつなぎ、牽引していく。荷台はあるが小さすぎる。彼は無表情で、となりには犬が乗っている。像は道路に擦り付けられて磨耗していく。牛が倒れた時、像に最初の大きな損傷が起こる、まるで彼の中で何かが死んだとでもいうようにも見える。

彼はもう一度エンジンをかけ、車を走らせる。眼に映るのは現代のジョージアだ。崩れかけたアパートや、道端の人々。私の目には、彼は自分なりのやり方で、彼の中に眠っていた英雄を自らの手で殺し、現実に生きると決めたように見えた。誰もが経験する、英雄の否定と自立、という人間の普遍的な物語だ。

でも同時に、ロシアによる侵攻ののち、ロシアと外交断絶し、国名をグルジアからジョージアと英語読みに変えたことがまだ記憶に新しい、作家の故国、旧ソ連圏でもあるジョージアとも重なって見えた。

抵抗としてのアート

どの国でもそういうところはあるけれど、特に先進国以外の国では、アートは政治的であることが多いと思う。アートではしばしば言葉で言えないことを、表立って言うことができる。そしてアートは、人の心を、ひいては国を、国際社会を動かす「てこ」になることがある。

この作家の作品も政治的とも言えるかもしれないけれど、その手法はとても繊細だ。かすかなヒント。聞こえるか聞こえないかのささやき。見えるか見えないかの小さな文字のようなもの。

たとえば、実際に囚人を閉じ込めるのに使われていた監獄の古い緑のドアが目の前に立てかけてある。近寄ってよく見ると、覗き穴にろうが内側から詰められている。見張られる側の弱者である囚人の「見るな」という意志表明だ。気がつかなければそのまま通り過ぎてしまう小さなヒント。

自分の意志を生きるということ

英雄を殺した中年男性は、これからどう生きていくだろうか、囚人は視線を塞いで中でなにをしようとするのか。それは外から見れば、個人的でとても小さな変化だけれど、魂にとっては大きな変化だ。わたしはわたしの道を行く、私の意志を生きる、という宣言のようにも見える。

それは子供時代誰もが経験する、小さないたづらとも少し似ている。無力な子どもは、ほとんど自分の意志ではなにもすることを許されていない。それで彼らは、小さなプロテストをしてみる。給食に出た嫌いなものをこっそりとランドセルに入れて持ち帰り途中で捨てる。退屈な授業の時間に、先生を揶揄する小さな紙切れを回したりする。

私たちは、自分でもそれと気がつかずに言っていたのではないだろうか。

「わたしは大人の言いなりにはならない。私は私の人生を生きる」と。

Domain Plus × 日比谷図書文化館

ひさしぶりに日比谷図書館に行ったら、いつのまにか日比谷図書文化館になっていた。見た目はたいして違わないけど、入るとけっこう違う。そりゃあそうか。

若い若林奮の美しいスケッチブック(画像)。小さな横向きのスケッチブックなのだけれど、中身は電子ブックのようにして見せていたけれど、もっと大きな画像で見たかった。

折笠良さんの言葉が動くアニメーション

一昨年ファンになった折笠良さんのアニメーションを、再び見られたのは嬉しかった。折笠さんは、文字をモチーフにしたアニメーションに取り組まれている。サイ・トゥオンブリーに関するロラン・バルトのテキストや、詩や、童話を表す文字たちが、動き、震え、旋回し、形を変え、言葉の響きと、意味や物語と呼応する。

≪Scripta volant / Writings fly away≫長いけれど夢中で見てしまう

新作は、立体視を取り入れた作品で、赤と青のセロファンが貼られた紙製のメガネをかけて見ると、文字、筆跡が彼らが縛られている二次元から解き放たれて、踊りでてくる。ああ、大きな画面で見てみたい。

アートの力で(?)、Aboutページを発作的に変えました

実は、気がついている方もいらっしゃると思うけれど、ちょっと前にAboutページをアップデートしました。折笠さんのロラン・バルトのテキストのアニメーションを見ていて、突然インスパイヤされてしまった。(←)わたしは精神である。わたしは現実=日本人の中年女であること=に縛られず、とらわれない精神であると。精神は、永遠に飛び跳ね、ひろがり、躍動するのだ、と。かなり発作的なテキストなので、引かれてしまうかもしれない。まあいいか。わたしのステイトメント的なものです。

これもアートの力ですね。わたしは、アートの真の力とは、えてしてきつい現実に生きる、重い肉体を持った人間に「自分は、本来は自由な精神であること」を思い出させることではないかと個人的に疑っています。

言葉とアートと人間の精神

考えて見れば、「文字」とか「言葉」というのは、人間の精神活動そのものじゃないか。テキストによるアニメーションに、インスパイヤされたのは、とても自然なことかもしれません。

そういえば、言いにくいことを笑いにするのがジョーク、非言語形式で表現するとアートになるのかも。なんだか似ている。どちらもとても人間らしい精神活動です。さらに、言葉とアートを結びつける折笠さんのアニメーション。意識的にひとつの記事にしたわけじゃないんですが、こんなふうに偶然に繋がっていると、うわあ、という感じ。うれしくなる。

実際は、ちょっと書こうとしたら長くなってしまったのです。分けた方がいいのかな、こういう場合?

久しぶりにいった日比谷図書館、じゃない図書文化館。3階にも蔵書の合間合間に展示が展開されていて、本も読んで行ってね、ということなのだろう。昔と変わらず、みなさん静かに精神活動に勤しまれていた。学生時代を思い出して懐かしかったです。

◼️英国一家、日本を食べる 上 (角川文庫)

たしかテレビ化もされたんですよね。マイケル・ブースの英国一家シリーズは、今は文庫化されているんですね。ところどころに出てくるブリティッシュ・ジョークで始終くすくす笑わされますが、かなり深い取材をされていて、日本人にとってもとても勉強になる本だと思います。フランス編もとても面白かった。インドや北欧に関する本も出されています。

◼️英国王のスピーチ (字幕版)

言葉&英国つながりで、吃音に悩んだ英国王の成長の物語を描いた映画。彼の吃音の理由は幼少時にあるのでした。言葉がうまく出てこないとか、自分の意志とは違う言葉がでてきてしまう、ということは、誰にでも経験があるはずだけど、言葉が自分の意志とは別に踊ったり跳ねたり、止まってしまうというのは、精神にとっての、言葉の居場所の深さみたいなものを見るような気がするのです。とはいえ、なにも考えずに、単純にすごく面白い映画でした。

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