レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル ー森美術館は森遊園地になった?

レアンドロ・エルリッヒ《建物》 2004/2017年/展示風景:「レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル」森美術館、2017年 /Courtesy: Galleria Continua

話題のレアンドロ・エルリッヒ展に行ってきました。1回目は1時間待ちで引き返し、平日の夜にリトライ。すごい人気。

実を言うと、割とネガティブみもあり、公開するかか迷ったのです。みんなが楽しんでいるならそれでいいんじゃないか?夜中ツイッター調査をしてしまいました(笑)。ちょっと励まされたので、公開してしまうことにします。悪いことばかりじゃないさ。

エルリッヒの作品は以前も見たことがあるんだけれど、今回の企画展に関しては、なんとなく危惧はしていたのです。エルリッヒの作品をまとめて並べたらどうなっちゃうんだろうか。

半分楽しみでもあり、半分怖いなとも思っていたけれど、あなたも○○とか、体験型アート、みたいなコピーや、インスタ映えSNS映えをアピールするマーケティングを見て、実を言えば悪い予感のほうが強くなっていった。テレビ番組は見ていないので内容はわからない。

会場は人がいっぱいだった。子供の金切り声、はしゃぐ若者、自撮りする観光客の群れ。みんなとても楽しんでいるみたいだった。

森美術館は森遊園地と化していた。悪い予感が的中したのだろうか?いやいや、待ってよ。

現代美術かトリックアートか

いろいろと両義的にひっくるめて「こうなった」理由の一つは、エルリッヒの作品が技法的にトリックアートと近いからだと思う。

トリックアートとは何かというと、人間の視覚の錯覚を利用した「アート」ということで良いのだと思います。都内、また近郊にいくつかのトリックアート美術館があるらしい。らしい、というのはわたしは行ったことがないのではっきりしたことが言えないからですが実際は、見世物小屋* 1 、または今風に言えばエンターテイメント施設なのだろうと思う。

「アート」というものは、たいへんにやっかいな言葉で、ひとつのもののように見えて、その実、見せ物小屋的エンターテイメントや商業アートと、シリアスな芸術としてのアートにわかれている。その間には一応は線が引かれているんだけれど、その線は頑丈なものではなくて、すぐに消えてしまったり誰かが書き直してしまうグラウンドの白線にとても似ている。

たとえば、「ポップアート」なんてその最たるものだ。美術史上では1960年代のアメリカを中心としたムーブメントのことを言う一方で、メディアなどで商業アートを意味する場合もあって、しばしば混乱の元になる。アートという言葉がもともとあいまいなんだから、もうこれは宿命みたいなものなんだろうと思う。どっちのことを話しているのか、しばらく考えてから理解するようにしている。まあポップアート自体もなんだかあやしいんだけど。アーティストと言ったって、街頭の風船アーティストから、芸術家まで含んでしまう。

毎日白線が引き直される一方で、その白線自体を嫌って足でがしがし消す人だっている。たぶん、ある種のマウンティング系の人々が、ほかの種類の大衆と呼ばれる人々* 2 の劣等感を刺激してしまうような言い方をするからだと思う。マウンティング系の人々に劣等感を刺激される必要なんかない、とわたしは思う。純粋芸術は商業芸術の上にあるわけじゃない。ただ、意図や目的、意味が違うだけだ。下着とコートが違って、和食と中華料理が違うようなものじゃないの。

とはいえ区別はある。その区別が問題なのだ。

トリックアートは視覚的な錯覚を利用して人を楽しませ、エルリッヒの作品は、視覚的な錯覚を利用して人の感覚や常識を揺さぶろうとするコンセプチュアルアートだ。でも実際、エルリッヒの作品を表面的に見れば、とてもお金のかかった、精巧なトリックアートに見えてしまう。

区別はどこにある?混乱したって仕方がない。混乱させないためにはある種の工夫が必要だ。または、この混乱によって、美術好き以外の人からの支持を得ているのかもしれないけれど。

美術史の中のトリックアート

一方で、美術史を振り返れば、だまし絵的なトリックアートの例をいくらでも見つけることができる。

Jan Vermeer - The Art of Painting

すっかり大人気になったフェルメールの≪絵画芸術≫。カーテンは画面のこちら側にかかっていて、画面の部屋の中を覗いているような趣向になっている。これも一種のだまし絵。

Hans Holbein the Yonger - The Ambassadors

有名なホルベインの≪大使たち≫。大使たちの足元にある横長の「ナニカ」を、斜めの一定の角度から見ると骸骨が浮かび上がってくる。

そのほかにも建築と一体化しただまし絵も数多いし、去年話題を呼んだアルチンボルトもだまし絵の一種と呼べるだろう。もともと美術が「芸術」として偉そうな顔をする以前の時代の美術は、遊び心に満ちている。

だから、トリックアートは、いつから見世物小屋に分類されるようになったのだろうか?と考え直すこともできる。だいたい、美術は常にイリュージョンを作り出すものじゃないのか。

エルリッヒの作品は、錯覚によって、見る人の脳内に、もうひとつのそこにはないはずの、シュールレアル的世界を作り出す。

コンセプチュアルアートの文脈から

もう1つ、コンセプトという文脈から、1917年に多くの人を怒らせたデュシャンの泉のことを話させてほしい。大量生産品の男性用の小便器にサインをし、「泉」*3とタイトルをつける、という行為によって、それは消費される小便器から、美術作品に変わった。

それは美術というものの意味の転換だ。

美術、芸術が美しいものから、ただの小便器に?いや、今話したいことは違う。この作品によって、美術作品が、目に見える「モノ」から「泉」というタイトル、すなわち目に見えない「コンセプト」として成立しうるようになったんじゃないかと思うのだ。

あの作品は「泉」というコンセプトなのだ。デュシャンは小便器にサインをしたけれど、実を言えば、作品は小便器でさえないのかもしれない。

エルリッヒの作り出すシュールレアルな幻の世界、たとえば自分以外の人が映る鏡や、縦横が入れ替わる建物といったものも、本来、私たちの無意識的な視覚的常識をゆるがすためのコンセプチュアルな装置なのだ。

ポップアートの文脈から

泉から数十年経って、ポップアーティストたちのタブローに、大量生産品がメインモチーフとして現れた。それは、すでに大量生産品に恋をしていた人々を夢中にさせた。やすやすと。

ウォーホルのキャンベルスープ*4に、作家自身が語るように意味は何もないのだと思う。現代の大量製品に対する批判、と批評家は当時言ったと思うけれど、批判なんか込められているように見えない。あえて言ってしまえば、大量生産の時代にどっぷりと浸かり、大量生産された食品を食べ、そんな毎日を生きている、その乾いた事実だけだ。ウォーホルは毎日飽きもせずあのスープを食べていた。

今、冷めた目でウォーホルの作品を見ると、私の心には、たしかに批判めいたものが立ち上がってこなくもない。大量生産されるランチ、大量生産されるグラマーな女の子、大量生産されるテレビの映像、大量生産の毎日に安住する人間。それでいいのか?と松岡修造なら叫びそうな気がする。

あの時代のキャンベルスープとマリリンは、今の時代のインスタ映えなのかもしれない。人々はテレビなんか見ない。テレビに映るスターじゃなくて、自分を見るのだ。時代は発信だ。あそこにいた人たちは作品を撮っているのではない。自分を撮っている。シェアするための自己像だ。

映った自分にうっとりするのか、不安なのか、いいねと言ってほしい人々の群れこそが、今の時代を象徴するのかもしれない。まさに、この企画展に集まった人々であり、わたし自身もそこに含まれるのかもしれない。

数十年たったとき、それを私たちはどんな風に振り返るのだろう。

そして森美術館は森遊園地になった

そんなエルリッヒの作品が、美術品を並べる以外の用途を持たない美術館という抽象的な空間に並べて置かれたとき、揺るがすべき常識を失って、コンセプトは自然に蒸発したように見えた。美術館という場所はもともとおかしなものがある場所なのだ。人は予定調和にはあっという間に慣れる。

コンセプトを失って頼りない作品たちは、SNSにシェアする写真を撮りにきたたくさんの人々を喜ばす目的を見出し、嬉々としてアトラクション化した。企画展が、美術館のあり方まで変え、森美術館は、森トリックアート美術館か、または森遊園地となった。

それは、「体験」と「インスタ映え」を全面に押し出したマーケティングと、それによって集まったたくさんの目に見える現象を「体験」しようとし、「SNS映え」する写真を撮りにきた観客による新しい共同作品とも言える。

とはいえ、これはほとんど不可避的なことだったような気もする。ほかにどうやって展示すればいいのよ。ねえ。

でも、とわたしは夢想してみる。六本木ヒルズまたは六本木の街全体を会場にして、あるエレベーターを作品に差し替え、ある店舗をジャックして試着室の作品を置き、ある住居のドアを作品に差し替え、窓を、やはり作品に差し替えたとしたら、それはすごく揺るがせられる体験だったかもしれない。無理だろうけど。あと回るのも大変そう(笑)。六本木エルリッヒ祭り。

多分今回の企画展は商業的には大成功だったと思う。担当された学芸員やマーケの方々は祝杯をあげているのかもしれない。もちろん美術館が人を呼びたいのはわかっているし、人に来てもらわなければ意味がないこともわかっている。良かったですね。

けれど美術館が、実施する企画展を目の前に現れる現象以上のものとして「鑑賞」され「考えるきっかけになる」ことを目指すのならば、展示の説明文だけでなく、マーケティングもやはり目的を考えたものにすべきであって、「体験型アート」「SNS映えアート」とマーケティングで喧伝するならば、やはりそれに応じた「消費」がなされるよね、当然。という気もする。

それでも、企画展は失敗だった、とか、よくなかったということじゃあありません。ぜひ行って見て、自分の目で確かめてみてください。体験型アートで、ステキなSNS映えする写真も撮れます(←)。六本木ヒルズの53階にある森美術館に行ったことのない方は、東京をわりと近くから眺められる展望台もついでに楽しめます。2018年4月1日まで、だいたい22:00までやってます。

私が撮った、エルリッヒ展で撮りうる最もインスタ映えしない写真

たぶん私は代官山のギャラリーほうだけ行くべきだったのだろうと思います。なんだか人ごみに疲れたし、すこし退屈してしまった。でも、ある意味、まさに今の時代というものを見たのかもしれない。修造も出てきことだし、ポジティブで行こう!

では、きょうもポジティブな良い1日を〜!

◼️レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル

注のようなもの
**1**:悪い言葉だったらすみません。ほかにうまい言葉がみつからなかったし、美術というのは常に見世物小屋と美術館の間でふらふらしているものなので、そう悪い言葉ではないと思っているのです。
**2**:大衆と揶揄するようにいうひとは今でも多いが、あまり好きな言葉ではありません。今の時代に、本当に大衆じゃない人がいるのだろうか。マスメディアの意見にまったく頼って生きているのに。ただ大衆的感性みたいなものはたしかにある。マジョリティ的感性、ならばいいのかも。でも、そういう人の固い頭をがしがし振って揺るがせたい、と時たまこっそり思うのですよね…。振ってもしょうがないんだけど(笑)。
**3**:マルセル・デュシャンの「泉」は名作と呼ばれていて、もちろんそれだけの作品ではありません。たとえば、この作品によって美術作品は「手作り」でなくなったし、ほかにもいろいろな解釈ができる作品です。
**4**:アンディ・ウォーホルは、キャンベルスープ缶を何度もさまざまな形で作品にしています。私たちは、繰り返し作られ並べられる、大量生産のイメージに対面すると同時に、繰り返すことそれ自体の魅力にすっかりとらわれてしまう。繰り返されるイメージ、繰り返されるリズム、繰り返される身振りやメロディ、繰り返しそれ自体に、トランスに陥るような魅力がある。

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お題「今週のアート」今週2回目だけど、まあいいや〜。