ミロコマチコ いきものたちの音がきこえる展に行ってきました。

京都、佐野、長崎を巡回し、現在世田谷文学館で開催されているミロコマチコさんの個展に行ってきた。

画家であり絵本作家

実は一瞬、世田谷美術館に行きそうになりました(笑)。ミロコマチコさんの肩書きはとても人気のある「画家」であり、優れた「絵本作家」。エッセイなども書いていらっしゃる。だから、絵本作家兼画家兼エッセイストの企画展を文学館でやったってぜんぜん構わない。それに、詩人や絵本の企画展も美術館でやるから、最近は、なんとなくどっちでもいいことになってきているのかもしれない。

しかしこの「画家」という肩書きって、最近見ないですよね。むしろ新鮮。

アートのメインストリームみたいなものがあるとしたら、今そこにいる人は、「現代美術家」ということになるのだと思う。たぶん作品が「平たい絵」からインスタレーションや動画などさまざまに広がったからだ。「画家」ってなんだかレトロ?そういえば「絵師」みたいな言葉も最近聞きますね。ネットスラングの一種なんだろうか。

絵を描くとか、詩を作るというのは、べつに資格がいるものでもなし、ネットの時代に裾野が猛烈に広がって、みんながなにかを描いたり作ったりしては、ネットで発表している。ブログだってそうですよね。たぶん、人間がラスコー洞窟の時代から連綿とやってきたことだ。食べて飲んで眠るだけじゃなくて、わたしたち人間は「表現する」。

ミロコマチコさんが、「画家」という肩書きで言おうとしていることがもしなにかあるとしたら、

「私は美術史の流れのなかで泳いではいない。わたしは絵を描いている。わたしはわたしだ」

ってことじゃないだろうか。まあ、何も言ってない可能性も高いけど。でも、私がミロマチコさんの絵に感じるのは、そういうことだ。

いきものたちのおとがきこえる

会場は2階だけれど、一階のオープン・スペースにも作品があちこちにはみ出している。大きなクマがらんらんと目を輝かして私を見下ろし、階段にも赤い生き物たちが跋扈している。会場に入ると、いきものたちが醸し出す体温やにおいに包まれたような感じがした。

動物たちが、目をらんらんと輝かせている。生まれたばかりの「かわいい」動物じゃなくて、獲物を追い、爪でひっかき、のしかかり、牙で肉を引き裂き、血をすする大人の動物だ。闇の中で交尾し、子供を産み、荒っぽくも愛情を込めて育てる「かっこいい」動物たち。

なんだか動物たちは、みんな怒ったような顔をしている。大きなゾウの目がぎらりんと光っていて、こちらをじっと見ている。怒っているんじゃなくて、すごく真剣なのだ。わたしの体の中でアドレナリンが分泌される。わたしの中の原始人が、逃げなくちゃ、とか戦わなくちゃ、とか思うのだろうか。

「怒る」とか「戦う」いうのは、命がスパークする瞬間のひとつなのかもしれない。子供の時おとうとと、たぶん一度だけとっくみあいの喧嘩をしたことがある。体は興奮しているけど頭はすうっと静かで、相手の動きがスローモーションみたいだった。けんかの理由も、勝ったか負けたかも覚えていないけれど、全身に血がどっとめぐっていく感じを覚えている。格闘技をやっている人は、いつも経験しているのだろうか。

ヘラジカと抽象と具象

巨大なヘラジカが、二頭のしのしと歩いて(?)いる。《ヘラジカの森》だ。「うわーでっかい、かっこいい」。その絵の前で「抽象」について考えた。

「抽象画」と言われると、「なんだかわからない、難しい」と答えるひとは多いと思う。なにを表しているのかわからないから、というのが理由じゃないだろうか。

でも、実を言えばわたしたちはいつだって抽象している。

子供の描いた絵は、頭部が異様に大きい。人の目がだいたいカメラのようにものを見ることができても、見る人の脳(心といってもいいような気がするけど)は、世界をそのままは見ていないのだ。子供の心は、ひとの顔を、人の目を覗き込む。洋服は思い切って三角形とか四角形に省略され、手足は棒になる。

だから私たちは世界をそのままではなくて、抽象して感じているのだ、とは言えないだろうか。抽象は、むしろ人間がもともと持っている原始的感覚なのだと、わたしは思う。

まあ、ご本人はどうでもいいとおっしゃるだろうけど、ミロコマチコさんの絵は基本的には具象なのだけど、同時にとても抽象的だ。大きさということだけの意味じゃなくて。でもすべての絵は基本的に抽象だ。写真だって、時に抽象になる。そんなことを考えていた。

野生と猫好き

ミロコマチコさんは猫好きで知られている。わたしも猫好きなので、猫に惹かれる理由はなんとなくわかる。

犬も可愛いんだけど、あの飼いならされすぎた必死さ、一途さを見ていると、なんだかもうしわけないような気がしてなんだかつらくなるのだ。わたしはそんな立派な人間じゃあありませんよ。そんなにわたしのことを好きにならないで。おねがい。

猫は犬に比べてずっと野生に近い。

実際、品種改良の面でも猫にはあまり人の手が入っていない。犬のサイズや形状がとてもバラエティに飛んでいるのに、猫はだいたい同じ大きさでだいたい同じような見た目をしているのはそういうわけだ。猫好きの人は、猫をそのままにしておきたかったのかもしれない。猫好きとして、その気持ちはよくわかる。

飼い猫はかなり人間好きらしいということが最近の研究でわかってきたけれど、それでも外を散歩していると人間嫌いの猫にいくらでも出会う。彼らは自立して生きている小さな野生動物だ。人が近づけば、ぎらりと目を光らせて、しなやかな筋肉をすい、と動かして走り去っていく。音もなく。

やつらは周りに自然の、野生の匂いを漂わせている。

ミロコさんの絵の中の野良猫たちは、まさにそういうワイルドな猫たちで、人間のそばにいるけれど、同時に野生を生きている。

わたしたちはさびしくない

動物たちの絵に囲まれて、思い出したことがある。

時折、「寂しい」という人がいる。というか、たくさんの人が「寂しい」とつぶやいている。だれかほかの人を求めて手を伸ばしている。わたしも、昔そんな時期があった。

公園の大きな木の根元に腰を下ろして、サンドイッチをかじりながら「なんだか寂しいなあ」と思っていたら、雀のさえずる声がした。あたりを見ると雀だけじゃなくて、鳩がいて、カラスがいて、虫もいて、微生物もいて、木の葉がざわざわと音を立て、上を見上げると名前を知らない鳥たちが飛んだり、木の枝に止まったりしていた。

わたしがパンくずを投げると、雀たちが争ってそれを食べた。それで、わかったのだ。

「わたしはひとりじゃないし、寂しくもない」ということを。わたしはいのちにかこまれていて、わたしのまわりはむしろ大混雑しているくらいだった。それ以来、わたしは不思議に一度も寂しいと思ったことがない。

そのほか

脱線しましたが、絵の話に戻ると、色彩もとても美しかった。アクリルがメインで使われている作品がほとんどだけれど、宝石のように純粋なオイルパステルの色も。それから濁った色の豊かな美しさみたいなものも、久々に楽しみました。

画集や絵本がたくさん出ている人だからこそ、お好きな方は足を運ばれると、原画のサイズ感や色彩の美しさを堪能できると思います。

まっくらやみのまっくろ

まっくらやみのまっくろ

新作だそうです。アドレナリンもりもりと分泌。←意味不明。というか若い頃、黒という色は命の根源の色だ!と思っていたのですが、それを思い出した。ミロコさんの「黒」もうつくしいんですよね。
けもののにおいがしてきたぞ (えほんのぼうけん)

けもののにおいがしてきたぞ (えほんのぼうけん)

ブラチスラバ世界絵本原画展賞はもともと日本とかかわりが深いらしく、日本人作家もだいぶ受賞している。こちらは金牌を受賞した作品。
オレときいろ

オレときいろ

ブラチスラバ世界絵本原画展賞金のりんご賞。
けだらけ: ミロコマチコ画集 (単行本)

けだらけ: ミロコマチコ画集 (単行本)

こちらは画集。

会期は4/8まで。満開の桜並木を通り抜けたらすぐです。

*メイン画像: 公開制作作品
*画像(縦)参照:《ネギ畑のミルクとシマ》2016年 世田谷文学館

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