オペラ『ローエングリン』と、楽園追放

春の音楽イベントも増えてきました。ちょっと前になりますが、4月15日に終わった春祭で、ワーグナーのオペラ「ローエングリン」に行ってきたので、好き勝手に感想を書きます。一般的な解釈ではないと思いますので、読んで頭にきた人は、ぜひ教えてください。堂々とあやまります(←笑)。

ローエングリン」とグリム童話

聖杯騎士ローエングリンと姫エルザの恋の物語「ローエングリン」の原作はグリム童話の『ブラバントのローエングリン』です。

この物語を読むと、オペラの原型がよくわかります。エルザは自分を救ってくれた騎士ローエングリンが課した「自分の素性を聞いてはいけない」という約束を守り、しばらく幸せに暮らしますが、ある事故をきっかけにエルザの心にはローエングリンへの疑いが生じ、禁忌である素性を尋ねます。そしてローエングリンは彼女の元を去ってしまいます。

グリム童話は、グリム兄弟によってまとめられたドイツの民話集です。人間の姿に化身したなにかが、素性を聞いてはいけないとか、見てははいけない(=ほんとうの姿を知ってはいけない)という約束をさせるんだけど、最終的には約束を破ってお別れになってしまうという話は、ご存知のとおり世界中の神話や民話に似たようなものが見つかります。日本にも、たとえば鶴が妻となって恩返しをする鶴の恩返しや、黄泉の国に妻を取り戻そうとするイザナギの話、スサノオが豊穣の女神を殺した話などが、どこか似ているなあと感じるのはわたしだけではないと思います。

でも、オペラ「ローエングリン」を見ていると、どうも「素朴な民話をそのままオペラ化してみました」という作品には見えないんですよね。

その鍵を握っているのが、純真素朴なエルザに、ローエングリンへの疑いを吹き込んだオルトルートという魔女の存在です。魔女オルトルートは、2幕でキリスト教以前の異教の神々の名前を呼び、この話がキリスト教とそれ以前の古代の神々の対立でもあることを暗示します。これは原作にはないワーグナーによる設定です。今回の舞台ではペトラ・ラングが、邪悪な(笑)オルトルートを演じていました。

エルザは、魔女オルトルートにそそのかされてすっかりその気になり、ローエングリンに素性を聞いてしまいます。そのエルザを演じたのは、若いソプラノ、レジーネ・ハングラー。若々しい乙女のような声質、どこか愚鈍で冷たい表情で、純真で単純ながら、ちょっと知りあいのおばさんにどうこう言われただけで、心から愛していたはずの恋人を疑ってしまうエルザの愚かさや、情のなさみたいなものを感じさせる演技でした。

さて、素性がバレたローエングリンはエルザの元を去ってしまいます。ローエングリン役は、去年「タンホイザー」で主役を演じたクラウス・フロリアン・フォークト。輝かしく美しい声質と、ヒーローヒーローしたイっちゃった演技は、エルザを含む人間たちが抱く疑いや悩みといった人間的感情を理解できない神々の世界に属するローエングリンそのもの。迷えるダメ男タンホイザーの時は、実はそれほど良いとは思わなかったのですが、この真逆な役はたしかにはまり役。

全体的な感想でいえば、やはりフォークトが当たり役だけあって群を抜いてよかったなと。ペトラ・ラングは存在感はすごかったけど、なんとなく、わたしにはちょっと邪悪すぎました。たしかに悪役なんだけど、魔女オルトルートは、ただの邪悪な悪役でいいのか?

「疑う」エルザとオルトルート、そして楽園追放

キリスト教的なヒーロであるローエングリンの一方的な命令に近い禁忌は、キリスト教という一神教の粗暴性や暴力性みたいなものを匂わせるところがあります。ちょうど閉演後にも夫と話してたんだけど、女性の立場で見れば、突然白鳥(がひく小舟)にのってやってきたイっちゃった超イケメンヒーローを「こいつは一体ナニモノ?」と疑うのは、自然なことだと思うんですよね。むしろ、最初疑わなかったエルザのほうがおかしい。育ちが良すぎてボケすぎ。

むしろ、魔女オルトルートに言われたのがきっかけとしても、ローエングリンを疑いはじめ、「だって、あなたは白鳥が来たら、またどこかに行ってしまうんでしょう。そうしたら私はどうなるの?素性を明かしなさいよ」と攻めるエルザのほうが、人間として自然です。ローエングリンがいなくなった時に子供でもいたら、シングルマザー・ワンオペ育児確定です。父親が誰だかさえわからないとか、もうほんと無理(ですよね?)。

輝かしく尊いオレ様(キリスト教)を、疑問を持たずに誰だかもわからずに「とにかく信じろ」というのが、ローエングリンの非常に一神教教的な立場なのであって、その暴力性を告発し「こいつ怪しいぜ」とエルザに人間として「疑う」ことを教えたのが、古代の神々を象徴する魔女オルトルートなのです。

結局ローエングリンは去り、エルザは見捨てられてしまいます。それはキリスト教的な神と人間の関係性とそっくりです。「信じなさい、ならば救われる」世界では、信じないものは救われないのです。でも、本当なのだろうか?「信じれば救われるのだろうか?

ワーグナーのオペラ『ローエングリン』よりIn fernem Land(はるかな国に)。ローエングリン(クラウス・フロリアン・フォークト)は、エルザに聞かれて自らが聖杯騎士であると明かす。

そういえば楽園で知恵の樹の実を食べ、疑うことを覚えて楽園から追い出されたのもまた女なのです。オルトルートは旧約聖書でイブに知恵の樹の実を食べてみよと誘った蛇なのかもしれません。イブは疑うことを覚え、楽園を追放されます。その姿は、疑うことを覚え、ローエングリンに捨てられるエルザと重なります。

もしそうだとしたら、この話では旧約聖書が繰り返されているのだろうか?いや、エルザはどこにも追放されず、行方不明になっていた弟の王子は見つかります。ローエングリンが去ったエルザの悲しみ以外には、悪いことはなさそうに見えます。あとは人間同士でやっていけばいいんだから。

むしろわたしには、エルザがオルトルートに導かれて身につけはじめた「疑う」という生き方は、キリスト教以前にあった人間らしい生き方 − 自分の知性を使って考え、生きる − ことを取り戻す道につながっているように見えるのです。そういえば、イブと一緒くたに追放されたアダムは、とばっちりだったのか?それともイブに導かれたのか?

多神教の国に生まれ育ったわたしとしては、オルトルートはたしかに悪役なんだけど、もしかしたらもうすこし繊細にちょっとだけ違う描かれ方、演じられ方をしても良いのではないかと思ってしまうわけなのですが(それを言ったらエルザもそうだけど)。でもやはり悪役は悪役なんですけどね。旧約聖書の蛇も悪役だしね。

ワーグナーに、「ねえねえ、ここだけの話、本当はオルトルートのことをどう思っていたんですか?」と聞いてみたくなったりするのです。

クラウス・フロリアン・フォークトのちょっと若いローエングリン。いやでも、今回の舞台でのフォークト、何度も若者に見えて目をこすりそうになりました。実際は47歳、すごいなあ。みなさん呼称が、フォークト「さま」と「さま」付きなのが、どんなローエングリンだったかを如実に物語っています(笑)。

大人気テノールヨナス・カウフマンローエングリン。彼はちょっと鼻にかかった暗い声でだいぶ違う役作り。

こちらも『ローエングリン』よりIn fernem Land(はるかな国に)。ヨナス・カウフマンローエングリンは、なんとも悲しそうに切々と歌うのでなんだか可哀想になってしまう。人間的なローエングリン。死んでるし。

さて、今日も人間的な1日を!