「あなたの存在に対する形容詞」ミルチャ・カントル展/「巡りゆく日々」サラ ムーン写真展

少し前に見たもののメモを見つけたので、印象を思い出しながらふたつほど。

「あなたの存在に対する形容詞」ミルチャ・カントル展

英語も"Adjective to your presence "だから、そのままですね。

ドアを開けると、涼やかな音色が波のように広がった。上方から細い管状の鐘が下がっていて、それがドアとつながって音がなるようになっている。それはたしかに自分の動きが生み出した音なのだけれど、仕掛けが隠されていたためか不思議にそのように感じられない。不意打ちの音は、むしろその音を引き起こした張本人に、なにかを語りかけてくるようだ。

でも、よく考えてみれば、私たちは自分が動くことで起こる風、音、気配、匂い、またはほかの人に与える影響といったものに、そもそもひどく無意識なのじゃないだろうか。

わたしたちは人が自分に影響を与えることを強く感じている。誰かが近づいたときに、誰かがいるときに感じるなにかは、言葉や接触によるインタラクションがなかったとしても、そうそう小さいものではないのだ。

誰かがあとから入ってきて、また鐘が揺れた。誰かが私に与える音だ。振り返ると、そのひとと一瞬、目があった。それから私たちはなにもなかったかのように視線をそらし、それぞれインスタレーションを楽しんだ。

軽やかで透明なインスタレーションから、人間ひとりひとりの存在が引き起こす風のような現象について考えていた。

私の存在は、ほかの人にとってどのようにあるのだろう。どんな音を、どんな風を起こしているのだろうか?

今回、東京のあちこちで撮影されたという映像作品では、人々がプラカードを持って無言で都内を行進していく。市場や、議会、寺、よく知った街のあらゆる場所で、彼らは静々と歩き回る。

違和感を感じるのは、たぶん彼らが手に持ったプラカードが透明だからだ。プラカードを持って歩くことは抗議の身振りであるはずではなかっただろうか?でも、訴えが書かれているはずの看板にはなにも書いていないどころか、透明で持ち手の顔が透けて見える。

無言の主張。言葉に出せない、抑圧された主張。または、言葉にならない主張?

私たちは、社会のなかに生まれ育ち社会のなかで生きていくために、そのまま思うまま生きることはできない。社会の中でほかの人とともに生きる以上、社会に「合わせて」生きるのだ。社会というと抽象的な言葉だけれど、要するに肌の外側に常にあって、当たり前のように存在する何かだ。

文化とか、伝統とか、そういうすべての透明な「空気」を読まなければ、社会不適合というレッテルを貼られる。強制された身振り、強制された常識、自分ではないものの中で、でもそれぞれはそれぞれ固有の存在として、固有の思いを抱えて生きている。

共生と個。人間というのはたぶんそういう生き物なのだ。透明なプラカードを抱えたそれぞれの個が集まり、ともにデモ行進を続けながらも、ひとりひとりのプラカードに書かれていない思いはおそらく見事に違う。人間のあり方そっくりだ、と思った。

Sarah Moon

“D’un jour à l’autre ”「巡りゆく日々」サラ ムーン写真展

子供の頃年寄りに聞いた、自分が生まれる前の時代の話は、なんだかファンタジーの世界のようだった。キラキラと輝く想像上の照明の下断髪のモガが微笑み、軍人姿の若者が青空にむかって敬礼している。まったく現実味のないかつてあった世界の話を、子供時代の私は一生懸命聞き入っていた。

触れるようで触ることのできない過去の時間。かつて確実に存在した時代の話に私たちは聞き入り、憧れる。

サラ・ムーンの写真を見て、そんなことを思い出した。

彼女の写真は多くがモノクロームで、昔の写真のようにすこしボケていて、ときに荒々しく現像され汚れているように見える。そうしたテクニカルな「汚れ」によって生み出された擬古調の画面の中で、今生きているはずの女が、フィルムの中で昔の女として現れる。今生きているサーカスの象、今ある工業地帯、今の街、今の全てが過去の幻のように見えてくる。

フィルムを汚すという手の込んだ操作によって、彼女は「今」を、魔法のようにあの幻のような手の届かない過去の世界に変えてしまう。ように見える。

かといって、たぶん彼女は過去を取り扱っているわけではない。彼女が作り出そうとしているイメージは、どれだけ過去のいつかに似ていようと、過去ではなく、手に届かない「幻」なのだ。それは、たぶん彼女の心のなかの世界なのだろう。

私たちは、心の中に不思議なくらいそれぞれ違う色や形の世界を持ち歩いているのだな、と思うことがある。サラの心象風景は昔のフィルムのようなのかもしれない。

私の心の中のイメージは、これとは違う。あなたの心の中のイメージはまた違うのだろうと思う。そう考えると、ひとの数だけイメージがあるのだ。人数分の小さな世界のかけらを、わたしたちは交換しあっているのかもしれない。

そしてそんな、素敵な世界を見たくて私はアートを見、音楽を聴き、本を読むのだろうなあと思う。

今日も素敵な世界と素敵な1日を!