ブログが怖いという感覚について

お久しぶりです。

しばらくの間、すっかりブログからもSNSからも遠ざかっていました。その間にも音楽を聴き、ギャラリーや美術館に通い、週に2、3冊の本を読み、時々映画を見ていました。

感じることはいろいろとあるのだけれど、1つには喉の奥で、言葉がつっかえたようになって出てこない、というのに似た感覚がずっとあってなにも書くことができなかったのです。それからもう一つは、なにか怖いような感覚があったのです。

この怖いような感覚はちょっとおなじみでもあります。なにかから遠ざかる時の、怖いから近づけない、という感じ。こんな感覚を抱く人は他にもいるんだろうか?

今までは、ゆっくりとその場から身を引いてしまうのが定番だったんだけれど、わたしはいったいなぜ、こんなふうに感じているんだろう?これをやめたらどうなるんだろう?と、あらためて思ったのです。

たぶん、まとまりのない文章になると思いますが、自分のために書いてみたいと思います

出てこない言葉について

なにかまとまった文章を書くというのは、そこそこ労力のいる仕事です。今の私の仕事は言葉を使う仕事でして、もしかしたら、と考えたのです。

1日に出てくる言葉の量はすでに決まっていて、仕事で言葉をたくさん使ってしまうからブログやSNS用の言葉は尽きてしまっているのかもしれない。

あるいは、仕事で使う言葉がブログで使う言葉と違うので、心がブログからあまりに遠く離れてしまって、うまく戻ってこれないのかもしれません。

今は仕事がひと段落した時期なので、なんとか言葉が紡げています。

わたしは実は案外ワーカホリックなのかもしれません。人生は仕事だと思ってきたところがあります。仕事に関しては、頭の中がオジサンのようになります。

せっかく会社員をやめたので、もっと上手にバランスを取れるといいな、と思います。

怖さについて

実は、この怖さについての方が、ずっとわけがわからないものです。

ブログとSNSに近づくことがなぜ怖いのか。

なんとなく感じるのは、ずっと持ち続けている、自分が発する言葉に対する責任の重さと怖さです。

私はうろ覚えの記憶で間違ったことを言うし、次の日はころりと意見が変わって違うことを考えていたりもする結構いい加減な人間です。

近しい人であれば、あとでとにかく訂正して「えへへ」とベロを出せばいいのだけれど、ブログに書いたりSNSに書いたりすることで、私の言った間違いをほんとうのこととして信じる人がいるかもしれない。その責任に対する恐怖があります。

いや、むしろいつか誰かから「お前は間違っている」とか「バカなやつめ」と責められることに対する恐怖なのかもしれません。

「正しくないかもしれませんが」「お役に立つかどうかわかりませんが」そんな言い訳を枕詞に言葉を重ねていると、寒い夜にゆっくりと雪が降り積もるように、恐怖も積み上がっていきます。そしていつしか降り積もった恐怖が、なにかを言いたい気持ちよりも重くなって、たぶん私は黙り込んでしまうのです。

いくつかの私の過去のバーンアウトの原因のひとつもたぶんコレです。

私は神経質すぎるのでしょうか?他の人はそれほど言葉を真剣に捉えていないのでしょううか?

結局承認欲求?顔を洗って出直します

いやむしろ、無言の静けさに、やさしいひとのうなづきに、「間違っていること言っているな」と思われているのに指摘してもらえないだけなのではないだろうか、という恐怖かもしれません。たぶん、間違ったことを言う恐怖と、それを指摘される恐怖と、指摘してもらえない恐怖、ぜんぶ。

結局これはかなり裏返って面倒くさい状態になっているけれど、承認欲求のひとつなのだろうか?「嫌われる勇気」も読んだはずなんだけど(笑)

まとまらない文章ですが、ちょっとしたリハビリポストを兼ねて、結局自分は承認欲求を持て余しているのかもしれないという痛いことに気づいてしまいました。顔洗ってすっぴんで出直すことにします!

では、今日も、ゴールに向かう道の途中ではなく、今ここでダンスを楽しみましょう(←と自分に言う)!

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

2013年に出版され、長く売れ続けている本書。「自己啓発の源流」という売り文句に、自己啓発本が苦手な私は平積みの本書をえんがちょして避けていましたが、読んでみたら実はとってもまともな心理学の本でした。いかに幸せになるかを目的にすると言うひねりが、西洋哲学が心理学と出会ったような感覚を覚えます(←あんまり勉強していないけど、いちおう哲学科)。

承認欲求がいかにダメかということを延々と説きつつ、目的を追いすぎる人生は人生のすべての瞬間を「道の途中」「ゴールに向かう途中」というあじけない時間に変えてしまうとも。(あああ…)

(私のように)目的志向、結果評価のオジサンたちには耳が痛い本だっただろうなあ…。