坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2《IS YOUR TIME》ー7年前のあの日のモニュメント

ライブパフォーマンスの時間に着くと、すでにたくさんの人がいた。

わたしたちは暗い会場のフロアに座りこんで、若い演奏家たちがあちこちで弦楽器と管楽器を奏でながらゆっくりと歩きまわるのを聞いていた。単純なノートがひびきあいながらゆっくりと移動していくのを感じる。鼓膜を震わし、耳の穴に響きが伝わり、耳の奥がじんとしてくる。

いろいろな音があるけれど、楽器の音というのはそのなかでも相当にエリートだと思う。完璧な音程、美しい音、純粋な響き。音があちこちに動き回ることで、耳の鼓膜だけでなく、身体で音を受け止めていることが、よりよくわかる。音は服を通って皮膚に、皮膚を通って体内に、細胞ひとつひとつに響く。細胞壁の中で音が響いている。わたしの無数の細胞と、そこにいるひとびとの無数の細胞が同じように響きあう。

「場」ができる。みんな集中して、できた「場」を守る。クラシックの演奏会では、こういうことはわりとある。聴衆と演奏者は本来ばらばらではなく協力者なのだ。赤ん坊さえ、黙っている。赤ん坊の細胞内にも音が響いているかもしれない。

ピアノだけが、奇妙な音を立てている。乾いた咳のような音は、多分弦が切れているのだろう。おもちゃのピアノのような音や、馬鹿みたいに狂って響く音程もある。きちんとしたピアノのように音それぞれが均一ではない。

聞いているうちに耳が馴染んできて、個性のある面白い音に聞こえてきた。ある種自然な音のような。または、心地の良い人々のささやきのようだと思った。人の声を聞きたい。そう思ったら、演奏家たちは不意に語り出し、声を発声する喉とともにその声は会場を動き回り、そして椅子を片付けてしずしずと出て行った。赤ん坊は眠っていたみたいだった。

そういえば、明日が3月11日だと気がついたのは、ライブが終わってピアノのそばに行った時だ。ほこりをかぶり、弦が錆びて一部は切れている、津波ピアノ。

震災から7年目の今年、3月11日まで開催されていた坂本龍一さんと高谷史郎さんのサウンドインスタレーション作品《IS YOUR TIME》を見に行った。

もう終わったのでネタバレにならないと思うのでかいつまんでいうと、会場に設置されていたピアノは、2011年宮城県の高校の体育館で津波を被り、海水に浸かっていた楽器だ。弦も錆びて切れ、音も狂ってしまった。その楽器が「自然が調律したまま」最小限の調整を施され、自動演奏で世界の地震のリズムを奏でている。

ワタリウムで設置音楽1をやっていた時には、ちょっと事情があって行けなかったのだ、というか行かなかったというか。だからこのピアノの奏でる音を生で聴くのは初めてだった。

空間には、高谷史郎さんの小さなスクエアのスクリーンが設置され、それぞれが明るくなったり、点滅したり、ドットのパターンを示していた。そこに坂本さんの『Async』の厚みのある音が重なる。

もしかしたら、わたしはなにかを期待していたのかもしれない。例えば、「追悼」とか、「昇天」とか「救い」とか、そういったものを暗示する音楽と光の仕草のようなもの。スクリーンの中の粒子の身振りのようなもの。なんとなく全体として「レクイエム」のようなもの。

でも、なにもなかった。そこには、津波を経験し、自然に調律されたピアノがただ地球の脈動のリズムの歌を歌っていた。

レクイエムではなく、モニュメントだったのかもしれない。

あれから7年。このピアノは世界を巡回するのだろう。

◼️Async

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最近、ふと思いついたことをTwitterでつぶやいて終わり、ということも多くなっている。それもいいかなと思う。いままでなら呟く相手もいなくてそのまま空中に霧散していたことを呟くと、なんとなくなにかが収束するような気もする。ブログの意味とか、ツイッターの意味とか、インスタの意味とか、それぞれ使いながら見えてくることもあるんだろうな。←ツイッター的呟き

間違いを訂正する難しさみたいなことを、間違ったことを言い張るブロガーを見ていて思った。迷惑なのは、間違いを本当だと思って信じる読者や学生だろう。教育に携わるひとなのであれば、真実に対してもっと誠実であるべきだと思うのだが。

今日という日は一度しかない日。大切に良い一日を!

お題「今週のアート」