第10回 恵比寿映像祭 インヴィジブル ー 夢と異世界と時間:【見たメモ】

SIMURAbros(シムラブロス) 『まだ見えぬ映画に向かって』“Towards Film Beyond Film”

第10回目を迎える恵比寿映像祭が、今週末まで開催中。今年のテーマは「インヴィジブル」、見えないもの。いくつか印象にのこった作品をメモ。(見た順)

ガブリエル・エレーラ・トレス≪適切な運動による神への近寄り方≫

≪適切な運動による神への近寄り方≫ トレーラー

夢のビジョンというのは、眠っている間自分だけが見るものだ。要するに、他人には見えない、他人とは共有できない、自分だけがプライベートに所有するビジョンなはずだ。たしかにいくつかの類型はある。たとえば「飛ぶ夢」とか「殺される夢」とか。でもその飛び方や、飛ぶ場所、高度、スピードは千差万別で、やはり自分の見た夢は自分だけのものだ。

「自分だけのものであるはずの夢」を、誰かが、みんなが、多くの人が見ているということはあるだろうか?または、もしそういうことが起こったら、「同じ夢を見ている」ことを現実として受け入れ、信じることはできるだろうか?

≪適切な運動による神への近寄り方≫より

たった20分で繰り広げられる、夢を軸としたストーリーは、まるでカフカゴーゴリの短編小説のよう。ジムで運動する男たちの間にある、ある種の物理的かつ心理的な距離感と緊張感とともに、不思議な手触りが残った。

エルカン・オズケン Erkan Özgen 『Wonderland』

『Wonderland』より

シリアのコバニ(アイン・アル=アラブ)はトルコと国境を接したシリア北部の町で、人口のほとんどはクルド人。ISISの激しい攻撃を受け、当時国際的にも非常に大きな注目の的になり、多くのクルド人がトルコ側に逃げた。

ヴィデオには、当時コバニで家族とともにいて親戚を殺された経験を持つ、耳が聞こえず言葉が話せない少年が写っている。彼もトルコ側に逃げて助かったうちのひとりだ。彼は、自分のISISの攻撃に関する記憶を、身振り手振りで伝えようとする。その記憶を、伝えようとする彼の熱のこもった身振りは、彼が言葉を持たないが故に、セリフのない残酷な演劇や映画のようだ。少年の心にはさぞ大きなトラウマが刻まれただろう。

でも、その顔から「悲しみ」とか「怒り」のような感情は不思議に感じられない。感じるのは、ただ「伝えよう」とする必死さだ。彼は何度も真剣な目で、確認するように何度もまっすぐ、おそらく撮影者を見る。まるで、「僕の伝えようとしていることわかってる?」とでも言いたげだ。

それは「ちゃんと聞いている?」ではなく「ちゃんと見ている?」なのだ。見ていることを確認するために、少年は見る。映像の最後の方で、彼は自分の手で自分ののどを切るような仕草をして「見せ」、わたしはそれを、ISISの兵士とコバニの人々に置き換えて想像してみる。

それにしても、なぜ口もきけ、話ができるほかの「ふつう」な住民ではなく、このある種「アウトサイダー」な言葉を話せない少年に「語らせ」ようとしたのか。もしかしたら単純に「言葉を超えた」経験だということを示すのかもしれない。または、人の話や、背後にある宗教や歴史や政治、といった複雑な背景をとっぱらった少年の鮮烈な記憶から、暴力性や異常性が純粋に伝わる、ということもあるかもしれない。

またはわたしたちが、自分の経験を言葉を使わずに伝えるとしたら、どのように伝えればよいだろうか、というふうにも考えさせられる。自分の内部を、自分の考えを、自分の気持ちを。もしかしたら「芸術」というのはまさにそういう行為そのものしれない。人間は、歌を歌い、踊り、絵を描いてきた。たぶん、ラスコー洞窟の昔から、ひとはひとになにかを伝えようとしてきたのだ。誰かに自分をわかってほしくて、わたしたちは表現する。

とにかく、この作品の理解は、見る者に委ねられているそうです。

偶然、このフィルムを見た日に、元ISISにいたという男のインタビュー動画を見ていて、平凡さについて考えていたせいもあって、いろんなことを考えさせられた。以下自ツイートで失礼します。

ナターシャ・ニジック&䑓丸謙 『恐山』 Natacha NISIC & Ken DAIMARU “Osorezan”

盲目のため、イタコになった「タケさん」の語りで進められるビデオインスタレーション。丁寧なリサーチと取り組みを感じさせる良い作品だった。恐山という異世界、その異世界を支えるイタコたちは、先進国になった日本が、そっと懐の奥に秘めたまま、忘れつつあるgemのようだ。

とはいえ、恐山は明らかに「実在する異世界」なのだ。「実在する異世界」ってへんな言葉だ。そもそも異世界というのは、この世界じゃないわけだから、この世界には実在しないはずなのだ。日本国の浦安に出現した「夢と魔法の王」ディズニーランドみたいだ。でも、とにもかくにも、恐山には東京駅から電車とバスを乗り継いで簡単に行けるらしい。(図参照:乗り換え案内にも出てきた)

おそらく「忘れつつある」なんていうのは、「合理的、科学的な現代人です、どうも」みたいに、とり澄まして浅く生きている都会人のおごりに満ちた言葉なのだろうと思う。恐山を求めている人々がいるかぎり「恐山」も現実に存在し続ける。かなり怖いけど日本人としては、一度は行ってみたほうがいい場所かもしれない。問題は一緒に行ってくれる人です。ひとりは怖いし、かと言って「ねえねえ、今度の連休は恐山に行かない?」ってなかなか言えない。まあ、こういうところは本当に必要なひとが行くべき場所であって、必要がない人間が物見遊山にいくべき場所じゃないんだろうなあ、うん。(←びびり)

コティングリー妖精写真 および関連資料

20世紀初頭の妖精写真は、現代の写真を見慣れた目で見ると、よくこれで騙されるなあと感心してしまうレベルなのだけれど、人間は自分の見たいものを見ようとするものなのかもしれない。ほとんどの心霊写真やUFOの写真も、怪しげなオーラ写真も、真実だと思いたい人は、真実として見る。嘘だと思いたい人は、嘘だと思って見る。火の玉が作れることを証明してみたりもする。

写真は騙すとよく言われる。絵画もそうだ。でも、一方で、ひとも進んでだまされようとするのだ。自分が見たいものをみるために。

たぶん写真と絵画だけではない。すべてのものはものの見方次第だ。個人の、世界に対する姿勢みたいなもの。

SHIMURAbros ≪まだ見えぬ映画に向かって≫

ちょっとうまく説明できないのだけれど、既存映画のあるシーンの動きやシークエンスみたいなものを、ひとつの形として物質化した作品(メイン画像)。「映画の瞬間」が薄い地層のように積み重なり、硬い金属の塊として結晶する。

それで思ったんだけど、人間は「時間」を目で見てみたいという願いを、いろいろな形にしてきた。時計も、砂時計も、体内で感じる時間とは別のもので、実際的な仕掛けではあるけれど、でもわたしたちはその実際的な時間システムに頼りきっている。

暗闇の中で見る映画がとても個人的な体験に近い時間であるように、その金属片が示す時間は、時計の示す透明な時間とは別の意味を持ったものだ。

とはいえ結局は、人間が内部で感じているふにゃふにゃした時間はや可視化できない、というふうにも見える。でも、もともと時間を可視化しようとした作品じゃなくて、映画を3D化した作品なのです。でも、映画も時間芸術のひとつだったはず。会場には、映画に関する言葉をまとめた映像作品など、映画にまつわる作品が展示されていた。

ほかにもいろいろ見ましたが、このへんで。今週末お出かけの予定がまだの方は、たまには現代アートでもいかがでしょう。去年はまだ閉館中だった写真美術館が再オープンして、久しぶりのメイン会場です。しかし、この時期いろいろ重なってしまって、いろいろ行きたい展示やイヴェントも多いけど、回りきれません。べつに回りきらなくてもいいんだけれども。