光悦「熟柿」などー「寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽」展より - 年とともに感受性は鈍くなるは本当か?

引き続き「寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽」より。

昔の芸術家というのは、さらさらっと書も書けば絵も描き、陶器の染付もさっさとやる、といった具合で幅広くてすごいなあと思う。

光悦という人も、書や蒔絵などに名前がでてくる人だけれど、もとも上流の刀剣鑑定の家に生まれたお坊ちゃんだし、職人仕事などはすべて自分の手でしたわけじゃないんだろう。でも茶椀は光悦の手によるものだ。

考えてみれば、いままで茶道に憧れもあって、良い茶わんをたくさん見てきたのだけれど、正直「これが国宝、へえ」みたいな感じでいまいちよくわからなかった。それが去年、東京近代美術館で開催された楽の企画展で光悦の茶わんに衝撃を受けてから、突然のにわか光悦ファン+茶碗ファンになってしまった。我ながらたいそう現金ですね。

芸術がわかるとはなんのことなのか?

生意気にも、わたしは美術や音楽、文学が「わかる」と自分のことを考えている。お前なんかなんにもわかってないよ、という人がいるかもしれないけど。自分でも「わかる」というのはなんのことか、と時々考えることがあります。わたしは何をして、わかるなどと信じているわけなんだろう?

客観的な根拠と言えるのは、いわゆる世間で「名作」と呼ばれ、すでに評価が定まっている作品に感動できることかもしれない。世の中で名作と呼ばれるものには、やはりそれだけの価値があります、絶対。でもそれでは大事なことが半分くらい抜け落ちてしまう。

誤解を恐れずに私の感じ方を言えば、素晴らしい作品には、その作品に「世界の真実」が込められている。そしてそれを見たとき、作った人の魂から、見る人の魂に、真実がまっすぐ突き刺さってくる。世界の真実を「宇宙の真実」とか「いのちの真実」と言い換えても良い。その真実に私は感動するのだと思う。

なに言っているのかわからないかもしれないけれど、分かる人にはわかってもらえるし、わからない人にはわからないのだと思う。

そう言ってしまうとまた意味不明だけれど。

芸術がわかるようになる方法は?

芸術がわかるようになる方法はあります。他の人も同じようなことを言っていると思うけれど、ただひたすら「数をこなす」こと。

わたしが美術を「わかった」のは10代の終わりでした。ちょっと特殊な家庭環境だったので、物心がついた頃からアトリエに入り浸って毎日様々な画集を見ていたし、美術館にもしょっちゅう通っていた。でも「わかる」にはだいぶ時間がかかりました。文学に衝撃を受けたのも同じころです。子供の頃本が好きすぎて、女子にもかかわらず「二宮金次郎」と呼ばれたりしていましたが、本当にわかった経験は同じ頃にやってきました。

音楽はもうすこし後で20代の終わりころ。幼い頃からピアノやほかの楽器を弾いたり合唱をしたりしていたけれど、真剣にクラシック音楽を聞くようになったのは高校生くらいからだったせいだと思います。そして茶わんは、去年やっと!わかりました。書はわかりかけたような気がする時もあるけれど、まだまだです。

当たり前だけど、数をたくさん見た順にわかるようになっていく。茶わんが一番見た数が少ないのです。茶道の家元の家に生まれていれば、きっと美術や音楽よりも先にわかるようになっていたんだろうな。もっと早くわかるようになったと言う人もいるので、わたしはむしろ奥手だと思います。

後になって、マルコム・グラッドウェルの著書で、1万時間ルール*1というのを知って、納得しました。結局あるものを本当に理解するには一定の時間が必要なのです。

わたしの想像図ですが、心のなかにはたくさんの部屋があって、それぞれに扉がついているのです。そして、その扉は一定回数ノックしないと開かないのかもしれません。

もし、私がひとつだけ拙いアドバイスするとすれば、なるべく素晴らしいと言われているものを見る、聞くこと。美術ならば現代美術よりも時を経て名作と言われている作品を、クラシック音楽なら名演奏と言われているもの、文学なら不朽の名作を。素晴らしい名作はそれ自体が導き手になってくれると思うのです。

熟柿

というわけで、冒頭の写真は、光悦の「熟柿」ですが、本物はもっとずっと柿です(笑)。写真ではまず一方向からしか見えないし、微妙な色や陰影がわからないし、角度によって変わる表情もわからない。画像を借りておいて文句ばかりですみませんが。

実際に見ると、大ぶりの碗のぽってりとした色と絶妙な曲線は、まるでよいお尻のよう、失礼、熟れた柿そのものです。実りの豊かさに包まれて、押しつぶされそう。なんて魅力的なのだろう。精神的な作品ではないかもしれないけれど、果実の実り、秋の実りの神秘的な豊かさがまさにそこに表現されているようでした。

本品の胴の豊かに張ったまるい形は手の内に良く収まり、熟柿の銘にふさわしい。丈の低い手づくねによる歪んだ姿、少し胴に沈み込んだ低く削り出された高台にも、良く熟れて軟らかくなった柿の風情が見える。熟柿の命名者ははっきりしないが、内箱の蓋表に「光悦 じゅくし」の墨書銘があり、片桐石州(1605~73年)の筆と推定されている。
参照(画像も):サントリー美術館コレクションデータベース

ふたつの膳所光悦

「きれいさび」で知られる茶人、作庭家、建築家、小堀遠州が光悦に作らせた膳所焼は、遠州の好みが反映されているように見えます。光悦らしい横溢する生命感や精神性みたいなものは少々なりをひそめ、かわりにどこか知的な洒落や洗練された美的感性のようなものを感じます。

頭に浮かんだのは、「パンダ!」白地に茶がかった黒がランダムにかけてあって、なんとオシャレな茶わんなのだろう。このアンバランスなリズムと間は、日本の美意識を感じさせる。のどかなゆがみと、絶妙な緊張感だ。もうひとつ繊細な貫入が美しい膳所光悦があったけれど画像をみつけられず。抑制の効いた形でもまったく退屈ではないところが、やはり光悦の美意識の行き届いたところか。

遠州は遠くオランダで好みの茶わんを作らせたりと、貪欲に自分の求める美を探したひとだったのでしょう。さっぱりと男らしい瀬戸茶わんがとても気持ちが良かった。自然の風景のなかに身をおいて、風に吹かれているような気持ち良さ。

しかし、われながら長いなあ。言葉が多すぎるのも良いことではないと思っているのですけど。

岡本太郎が言うように、

芸術は道端に転がっている石ころと等価値

かもしれない。でも、というか、たぶん、というか、石ころに感動できる人の心こそが不思議で、素晴らしいんじゃないだろうか。

年齢を重ねると本当に感受性は鈍くなるのか?

若い頃何にでも感動できるというのは、経験が少ないからだとどこかで読んだことがあります。自分の経験に照らし合わせてもその通りだと思います。若い頃の感動のハードルは低くて、何にでも感動することができた。食べ物でも、子供の頃はファーストフードでもとてもおいしいと感じられた。美術も色彩が派手なものに惹かれたように思います。

大人になるほどに、若い頃見たものに若い頃と同じくらいには感動できなくなってゆくけれど、感受性が鈍くなっていくのではなくて、たくさんの経験を積んで経験が厚みをもって感動のハードルが上がっていくのです。大人がファーストフードに感動できなくなることは、味覚が鈍ったのではなく当たり前のことだと思います。

かわりに、若い頃には理解が難しかったより繊細なもの、たとえば春の山菜や、茶碗のようにわかりにくいものに、ゆっくりと身体や目が開かれて行くのを感じます。これからまだまだいろんなことがわかったり、衝撃があったり、新しい感動があるのだろうと思うと、わくわくしてしまうのです。

とは言え、どんな見方をしても自由だし、ただ楽しめればそれで十分なのですけれど。

1: マルコム・グラッドウェル『天才! 成功する人々の法則』才能というのは天賦ではなく、一万時間そのことに打ち込んだかどうかだ、ということを様々な例をあげて解き明かした本(下掲)。だいぶ前に読みましたが、なかなか面白かったです。一万という時間が本当かどうかはさておき、一つのことに夢中で取り組み続けること自体も才能に他ならないとは言えるでしょうね。

◼️天才! 成功する人々の法則

この本、勝間和代さんが翻訳されていたんですね。今気がついた(笑)。

◼️第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい

こちらは、まさに2秒で美術作品の真贋を見分けるエキスパートへの素朴な疑問から生まれた本。理屈や、第六感と呼ばれるようなオカルト的な感覚でもなく、一瞬で結論に達する脳の働きを解説した本。初対面の一瞬で「実はわかっていたんだよな」とあとで思い返すことって実際ありますよね。

寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽」は4/8まで。ほかにも素晴らしい作品が多数。

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今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もう午後だけど、わくわくする素敵な1日を!

お題「今週のアート」