中年の危機と「何者かになる」をやめたその先のこと


鮮やかな死のようなもの

夜になっちゃったのでなんですが、今朝へんな夢を見ました。というか日付が変わっちゃったので、昨日の朝見ました。書いて、どうかな、と迷っていたのですが、せっかく書いたので(最近これが多い)夜の闇に乗じて公開してしまおう。

夢の中で漫画を読もうとしているんだけど、オレンジ色のチョークみたいなもので描かれていて、自分で色を塗らないといけないらしい。漫画の題名は、「未来なんとか」、え〜〜と心の中で文句をたれたところで目が覚めた。

自分の未来は自分で色を塗りなさいということ?なんだか詩人な夢だなあ。(笑)

「何者にもなれない」について

前の日の夜、寝る前に下記の記事を読んだせいで、こんな夢を見たのかもしれない、と思い出しました。

上のブログで論じられている「何者」は、なりたい自分の理想像、のようなもののようなので、わたしのケースとはぜんぜん違うけれど、それでも考えていたことと、どこかリンクしているなと思ったので、ちょこっと書いてみたい。反論したいということではない。わたしはわたしなりに、自分の今いる場所とか、これから行きたい場所みたいなものを再確認してみたいだけです。実際、内容はあまりリンクしていません。レトリックにひっぱられたところも大きい。念のため。

というわけで恒例の目次のようなもの。

誰かになりすまし続けていた自分

去年の年末にこのブログを始めた時、プロフにもブログのサブタイトルにも、ほぼ何も考えず「自分になりたい」と書き込んだ。書いてみたら、正直な気持ちにすごくしっくりと合って、これ以上いい言葉なんて思いつかないと思った。(実は数日前に、そろそろ「なりたい」から、「なる」にしても良いかなと思って変えたばかりですが)

でも考えてみたら「自分になる」というのはおかしな言葉だ。自分は自分にしかなれないんだから、今すでに自分であることには違いない。わたしが意図したのは、ひとつには「自分でない誰かになろうとするのをやめたい」ということだった。

概要は、最初の記事に書いた通りで、わたしはまともな社会人になるため、他人のニーズに自分を合わせようと長いこと、「ふつうのひと」を擬態していたのです。今なら、リアルダルちゃんみたいな感じと言えばわかるだろうか。少々極端な性格なので、ちょっとやりすぎたのかもしれない。わたしをリアルで知る人がみたら、「ええ?」って思うかもしれないけど。「足らないでしょう」と。(注:根深い自己否定癖もあるため、過去を振り返るといちいち面倒くさい感じになりますが、ご容赦ください)

「何者かになりたい」というのは、本来、上記の記事でもそうだけれど「自分は子供の頃から野球選手になりたかった」みたいな素朴でストレートなものだと思う。でも私の場合はかなりややこしくて、「(失敗したら潰しが効かなくて目も当てられないので)ちゃんと自分でお金が稼げる普通の人」か、できたら「みんなに褒められる普通より上のレベルの人」になろうとしていたのだ。なんてまともで現実的。女は現実的なのだ。

夢はかなった。少なくとも一見、私は自分の望むまともな人になった。それなのに苦しかった。

中年の危機と回復の旅

もう一つの意味は、こういうことだ。

40代のある時、私は自分がもともとどんな人間なのかわからなくなっていることに気がついた。ただ朝起きて、仕事をして、家に帰って食事をして寝る中年。「ふつうのひと」を擬態していたはずなのに、その擬態に本当になってしまったようだった。外面レベルでは、とりあえず目指すものになったのに、中身が空っぽになってしまったみたいだった。他人には、すごいねと言われることもあったけれど、すごくないのは自分で十分知っていたので、とても虚しかった。

今振り返ると、まさに中年の危機 というやつだったのかもしれないと思う。中年の危機というのも、最近はだいぶ色合いが変わってきていて、中年期の生き直しとも言われているらしいけれど、要するに、若い時は元気もあったし、サバイバルのために頑張ったけど、この先ずっとコレは嫌、無理、と突如気がついたというわけだ。

私の場合、「自分でない誰かになりたい」というのは、「今の自分ではだめだ」という、自分が自分に突きつけた否定のメッセージだったと思う。

私はばっちり自己否定の塊になり「ああじゃない」「こうじゃない」と、否定が私の肯定を駆逐し、わたしの喜びを奪いつつあった。わたしは肯定を、喜びを必要としていた。

それに気がついて、幼い頃や若い頃に好きだったことを真面目に再開した。ビジネス書じゃなくて、しばらく読んでいなかったちゃんとした小説を読み、しばらく弾いていなかった楽器を弾き、長らく描いていなかった絵を描いた。少々間遠になっていた美術館やギャラリーにも、またせっせと通い始めた。そのすべてが、鋼鉄の擬態の内側にぽっかりと空いた空洞を埋めてくれるような気がしたのだ。今振り返ると、本当の自分に戻るための回復の旅の始まりだったのだと思う。

だからブログを始めた時、「自分になりたい」と書いたのだろう。ブログもその旅の一部だった。その旅は今も続いている。

いつか来る死に向かって生きる

「自分になる」と意志表明をしたものの、わたしはいったいどこに行きたいのか。結局、目指している先にあるのはのは、「死」のような気がしている。

自殺をするとかしたいとかいうことではない。でも、40代にもなれば、「死」がシワや白髪と一緒に、自分の視野の中に入ってくる。死ぬ時に、やりたいことやった、ああよかった、と満足して死にたい。

だから、誰かと競争するのではなく、誰にすごいと言われるのではなく、自分の道を歩きたい。中年の危機、または中年の生き直しは、たぶんそういうものじゃないだろうか。何者かになるのではなく、自分の死に場所に向かって、生きていくこと。

人生は案外短いなあと思う。「大きくなったら」の先のことまでは考えなかった。自分が中年になることなんて想像できなかった。やりたいことをこの人生でやり尽くすことはできないだろう。それでも、だからこそ、自分の魂が欲するように生きたい。それが、「自分になる」という言葉だったのだと思う。

そういえば、冒頭の同じ夢の中に、すっかり存在も忘れていた嫌いな元上司が出てきたのを、この文章を書きながら思い出した。事故にあったか怪我をしたとかで、その人は、脳天に響く甲高い声で「こんにちわ!」と言ってわたしの夢に突然登場した。手を大きくぶんぶん振りまわして、ガリガリに痩せた細い足を振り上げ、おもちゃの人形か、儀礼兵の真似ごとのようにおぼつかない様子で歩いていた。リハビリを頑張っているらしい。ぎこちなかったけれど、目は輝いていて、笑顔で、昔よりもずっと幸せそうに見えた。

それでなんとなくこの上司は、今の自分のことなのかもしれないな、と思ったのだ。夢に出て来る人は全部自分の分身って言わなかったっけ?わたしがこの上司を嫌っていた理由は、たぶん、わたしが自分の中に抑圧し、隠していた自分の「負」の部分を、その人は周りにぎゅうぎゅう押し付けて生きているように見えたからです。

まあ、夢のことは置いといて、とにかく中年の危機にがっつり取り組んでみようと思っています。続報?あるかもしれません(笑)。

注みたいなもの

数年前、 NYタイムズで何気なく「The Middle-Age Surge」(2016年3月22日)という記事を読んだとき、そうだったのか、と膝を打った。要するに、「自分はもしかしたら中年の危機かも」と、やっと認めたのです。実はほとんどの人が迎えるという中年の危機。でも、恐れることはない。種まきの時期がおわり、準備が済み、そして刈り取りのシーズンに向けて、生き方も変える時期なのだ。だから中年期の人々の多くが、なんだか違うと思いはじめる。安定した仕事を辞めたり、離婚して周囲を驚かせる人もいる。そういうことをする必要はないけど、もやもやする。体制を整え直すのかもしれない。
中年の危機の意味や輪郭をきちんととてもわかりやすく説明してくれている良い記事だと思います。日本語の記事が紹介できればよかったのだけれど、実感にぴったり来る記事が見つからなかったので良かったら英語で読んでみてください。言葉も意味もぼんやりとは知っていたけれど、渦中にいると案外わからないものなので、まだ来ていない人は備えるべし。

Life Reimagined: The Science, Art, and Opportunity of Midlife

Life Reimagined: The Science, Art, and Opportunity of Midlife

記事で紹介されている本はこちら。ジャーナリストだった著者は、自分が中年の危機を迎えたのを機に、さまざまな専門家に取材し、中年の危機がけして恐るべきものではないと知ったという。そして自分の中年の危機をテストケースに、人生の目的をもって、より豊かな人生を生きはじめた。中年の危機が楽しみになるかもしれない。これも翻訳書が出ていないので、英語ですみません。

人間は若者から中年期が一番不幸で、老年になると幸福度が上がるという調査結果がある。まるで、人間は幸せに生まれて来て、自分の意志で不幸になって、そこからまた幸せに戻っていくみたいじゃないですか。だから何ということはありませんが、ふと。