マイク・ケリー展 DAY IS DONE 自由のための見世物小屋 に行ってきました

宿命と運命

人間には宿命と運命がある、とどこかで聞いたことがある。生まれる場所、両親、性別や姿形など、自分では選択できないものが宿命だ。どんな親の元に、どんな文化のなかで生まれ育つかは、そのひとの一生を左右する。宿命は変えられないけれど、運命は変えられるのだ、という文脈だったと思う。

マイク・ケリーの作品を見る時、わたしは、どうしても彼の宿命といったら大げさだけれど、生まれ育ちについて考えてしまう。彼が生まれた家族や環境と作品の間に、どうしても深いつながりを感じてしまうのだ。

マイク・ケリーとは

マイク・ケリーは、マスカルチャーをベースに作品を発表した重要な現代美術家のひとりだ。残念ながら2012年に若くして自殺した。米国中西部の車の街デトロイトで、アイルランドカトリックの労働者階級に生まれ育った。

米国でアイリッシュカトリックときたら、ちょっとしたマイノリティだ。J.F.ケネディアイリッシュ系でカトリックだったけれど、大統領選挙の際にそのことがアメリカを代表する大統領の資質として問題視されたことはご存知の通りだ。ケネディはアメリカの歴史の中でもカトリックとしては唯一の大統領であり、アイリッシュとしても同様だ。アメリカはプロテスタントの国だし、アメリカ人はとても信心深い(と彼らはよく自分たちでも言う)。

マイク・ケリーの父親は公立学校のメンテナンスを、母親はフォードで調理の仕事をしていたという。豊かでない労働者階級の家庭環境で、高校時代のマイクはヘビーメタルにはまり、大学ではちょっとしたパンクバンドに属していた。その後も続く音楽活動を通じて、彼のポップかつ反体制的なポーズは決定的なものになったのかもしれない。または勝手に深読みすれば、ある種の環境と雰囲気のなかで育ったことが、そうした音楽に彼を自然に惹きつけたのかもしれない。

Day is Done マスカルチャーが作り出す抑圧と恐怖

企画展会場のエレベーターの扉が開くと、目の前の白い壁面に映し出されたヴィデオのなかで、顔を白塗りにしたティーンエイジャーらしい女性が3人、ぎこちないトレインダンスをしていた。彼女たちは特に美しくもなく、グラマーでもなく、背格好も髪型もばらばら。スクールカーストの上位にはいなそうな彼女たちは、微妙なダンスを続けながら学校内を移動していく。会場の壁には、フィルムの中の3人組と、彼女たちによく似た3人の女の子たちのモノクロ写真が並べて飾ってある。

"Day is Done" は、マイク・ケリーの2005年の作品で、高校のイヤーブック(卒業アルバムのようなもの)や、ローカル新聞で見つけた課外活動の写真を「ライブ化再構成」した映像インスタレーションだ。モノクロ写真のほうは、マイク・ケリーのコレクションによる“見つけられたイメージ”なのだ。もともとは大規模なインスタレーションだけれど、今回の展示では映像を中心にしたシンプルな会場構成だった。

しばしばメディアやネットに「奇妙な写真」を見つける。あるコンテクストの中におけば自然なのだけれど、背景を知らないで見るとへんな写真。たとえば、鼻にコインをつけたり、割り箸を挟んで、奇妙な身振りをしている着物を着てざるを持った老人ってどうだろう。私たちは「どじょうすくいの踊り」と知っているので別になんていうこともないけれど、知らない人は、「このおじいさん、どうかしちゃったんだろうか?」とびっくりしてしまうだろう。そんな写真だ。

マイクはこの手の「奇妙な写真」を大量に集めて分類し、ファイリングしていたという。

私たちは、それぞれに育った場所の文化に完全に浸りきっている。あまり当たり前すぎて無意識なのだ。わたしは安来節は踊れないけれど、ドラえもん音頭なら踊れる。みんな踊れるよね?だから?という感じかもしれないけど、要するに世代によってそれぞれのマスカルチャーに育まれて、頭から爪先までどっぷり浸っているのだ。

マイク・ケリーは、"Day Is Done"のなかで、ある閉ざされたひとつの文化(この場合はハイスクール)の中で撮られ、その文化の中では普通だけど外から見ると「変」な写真を拾い上げ、さらにどこか異様で暗い物語に再構成した。

そうすることで、彼は、人々が自分が属する集団の中で、支配的な文化=マスカルチャー(それが異様であっても)に疑問を持たずに浸りきっていることを私たちに意識させる。さらに、そうしたマスカルチャー(マジョリティのカルチャーだからね)の持つ強大な力と、それによって個人に生じる抑圧の、グロテスクな力学をあばき立てて見せるように見える。

マイク・ケリーがDay is Doneについて語っているフィルム。変な写真コレクションも

ポップカルチャーが嫌いだ」

マイク・ケリーが表現のベースをポップ・カルチャーにおいているためか、彼の作品自体も時に「ポップ・アート」と呼ばれ、世代がだいぶ違うウォーホルと並べられることもあるけれど、この二人のアーティストは、言うまでもなくぜんぜん似ていないと思う。ケリーの作品はあまりにも生々しすぎ、個人的で、どこか暗く、痛々しい。

1928年生まれのウォーホルはマス・カルチャーをクールに消費し、一方54年生まれのケリーはマス・カルチャーを嫌悪する。それはそのまま二つの世代のマス・カルチャーへの姿勢の差なのかもしれない。

ケリーは自ら、「ポップカルチャーが嫌いだ」と断言している。それでもなお、嫌いなポップカルチャーを題材に制作を続けたのは、彼が育った時に触れることができたカルチャーがポップカルチャーだけだったからかもしれない、と想像してしまうのだ。ただの深読みかもしれないけれど。でも、人は善かれ悪しかれ自分のまわりにあるものを吸収するものだから。

または、「嫌いだ」と言っている言葉自体を疑ってみたほうが良いのかもしれない。「嫌いだ」と言いつつ、背を向けて立ち去ることをしなかったのは、やはり愛着があったからなんじゃないだろうか。結局それは、自分の育った環境のカルチャーなのだ。時折、大嫌いな故郷を、目をきらきら輝かせノスタルジーに浸りつつ語る人を見る。

それから、嫌いだけど、醜悪だけど取り憑かれてしまう、みたいなことだってあるよね、とも思ってみたりもする。悪趣味という趣味というのもあるのだろう。労働者階級の「悪趣味」、パンクの「悪趣味」、あえて場末の酒場を徘徊する人々。

まあ、マイク・ケリーがマス・カルチャーを好きか嫌いか、というのはある意味どうでもいい問題なのだけれども。ただ土壌であればいいのだし、ケリーは、その土壌からある種の栄養をしっかりと吸収したように見える。

悪趣味という趣味

現代の趣味は、わりと基本が「悪趣味」なのじゃないかと私はずっと疑っています。悪趣味に浸り、より醜悪で悪趣味なもの、強烈なものを求め、摂取しつづけているのが、今のわたしたちなのかもしれない。だとすれば、この時代に心穏やかに過ごすのが簡単なことじゃないのはあたりまえだ。

さて、そんな時代に生まれた宿命の私たちは、自分の運命を変えることはできるのだろうか、なんて思ってみたりもして。

マイクケリー展 DAY IS DONEは、ワタリウムにて。会期は今月末まで。

では、今日も刺激的な1日を!

◼️Mike Kelley: "Day Is Done"